ハヤブサ
プロフィール
リングネームハヤブサ
H(エイチ)
江崎 英治
本名江崎 英治
ニックネーム不死鳥
身長183cm
体重85kg
誕生日 (1968-11-29) 1968年11月29日
死亡日 (2016-03-03) 2016年3月3日(47歳没)
出身地熊本県八代市
所属FMW
スポーツ歴学生プロレス
柔道
トレーナー大仁田厚
ターザン後藤
デビュー1991年5月5日
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ハヤブサ(1968年11月29日 - 2016年3月3日)は、日本の男性覆面レスラー、歌手。本名:江崎 英治(えざき えいじ)。熊本県八代市出身。最終所属FMW。血液型A型。 熊本商科大学(現:熊本学園大学)在学中に「プロレス研究会」に入り、学生プロレスを始める。大学は2年中退だが学生プロレスは4年間続けていた[1]。1991年、プロレス研究会の同期である本田雅史(現:ミスター雁之助)と共に大仁田厚が代表を務めるFMWの入門テストを受けて合格。FMWの4畳一間の寮に雁之助と同部屋で暮らし、昼間はアルバイト、夜に練習をする生活を送っていた[2]。当時より「若手の中では素質がズバ抜けていた」と師匠の大仁田は語っている[2]。 1991年5月5日、アミーゴ・ウルトラと組んでパンディータ&上野幸秀(現:超電戦士バトレンジャー)戦でデビュー。1993年10月、海外遠征に出発してメキシコのWWAを中心に活動していたが、1994年4月に一時帰国して第1回スーパーJカップに出場。獣神サンダー・ライガーとの試合でインパクトを残してトップレスラーへの足がかりをつかんだ[2]。 1995年5月5日、FMW川崎球場大会において大仁田の引退試合の相手を務め、電流爆破マッチに初挑戦。その後は「新生FMW」のエースとして団体を引っ張る立場となった。6月、大矢剛功とのタイトルマッチに勝利して大仁田由来のチャンピオンベルトの世界ブラスナックル王座を奪取するも、すぐに返上。FMWのトップ選手を集めたリーグ戦「グランドスラム」では、決勝戦に進出するも、ザ・グラジエーターに敗れ、準優勝となった。 1996年には肘がパンクしてしまい、手術のため長期離脱となるが団体のため短期間で強行復帰せざるを得なかった。5月の川崎球場には田中正人(現:田中将斗)と組んでメインイベントに登場したがテリー・ファンク&ミスター・ポーゴ組に敗れる。その後、傷心のため失踪というアングルを取って、8月末までリハビリのために欠場。10月、みちのくプロレスの両国大会に参戦して新崎人生に敗れた。12月の駒沢大会ではみちのくプロレスのザ・グレート・サスケと対戦し勝利した。しかし、この大会で大仁田が現役復帰したが、FMWはエンターテイメント重視の路線を取る荒井昌一社長とデスマッチ路線を志向する大仁田の方向性で割れることとなった。 大仁田が全日本プロレス社長のジャイアント馬場に掛け合い、馬場がそれを認める形で全日本プロレスへの参戦が決まった[2]。なお、川田利明の反対もあったが(川田は1997年2月の週刊プロレスのインタビューにおいて「馬場社長には大仁田さんに関わってほしくないんだよね…」と語っていた)、馬場はかつての愛弟子である大仁田の頼みを邪険に扱うことなく、ハヤブサの全日本参戦を承諾した(大仁田から直談判を受けた際、馬場は大仁田に「欲しいものがあったら言え」とだけ伝えたという)。そしてハヤブサは馬場同席で全日本参戦発表の記者会見まで馬場のお膝元であるキャピトル東急ホテルで開かれた(1997年3月3日)。 「'97チャンピオン・カーニバル」より全日本にスポット参戦。馬場には試合内容を高く評価され、気に入られたという。 全日本で人生とタッグを結成して小橋&志賀賢太郎組に勝利。FMWの川崎球場大会では、小橋&マウナケア・モスマン(現:太陽ケア)組と戦い、自らが小橋のラリアットに敗れた。年末には、人生とともに全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦。強い格付け意識を押し出した当時のメジャー団体の中で、戦績は2勝7敗と振るわなかったが、多くの好勝負を展開[3]。この年はFMWと全日本プロレスをまたにかけた活躍が評価され、年末のプロレス大賞で敢闘賞を受賞。 1998年4月、雁之助からFMW二冠統一王座を奪取して10月には格闘探偵団バトラーツの池田大輔とのタッグで冬木弘道&金村ゆきひろ(現:金村キンタロー)組から世界ブラスナックルタッグ王座を奪取。しかし、11月に冬木に敗れ、FMW二冠統一王座を失った。海外では、人生と共にECWに参戦。ロブ・ヴァン・ダム&サブゥー組が保持していたECW世界タッグ王座に挑戦。 1999年2月、全日本に参戦して人生とのタッグでアジアタッグ王座を奪取。その後、FMWで田中&黒田哲広相手にアジアタッグ王座防衛戦が行われた。 また、参戦時のエピソードとして全日本の道場で受け身の練習をしていたら入ってきた馬場が自分を見て首をかしげていたので「どうしましたか?」と聞くと「お前、受け身誰に教わった?」と訪ねられ「(ターザン)後藤さんです」と答えたら「そうか、後藤か・・・。いや、左右逆だなと思ってな」(つまり後藤が全日本時代受け身を左右逆に覚えていた)という話を自著に書いている。 6月に当時FMWコミッショナーであった冬木からマスク剥奪勧告を受け、素顔に戻りH(エイチ)と名乗り活動。これは飛び技を主体とするファイトスタイルにより、着地の衝撃を支え続けた江崎の膝が限界に達していたと言う事情もあったらしい。11月に横浜アリーナで行われたFMW10周年記念興行では、2代目ハヤブサを名乗る雁之助と戦い、フェニックス・スプラッシュで勝利。 2000年からは再びリングネームをハヤブサに戻した。ハリウッドで製作されたプロレス映画『Backyard Dogs』に、本人役で出演するために渡米。WAR後楽園大会で天龍源一郎と対決した。11月には腕の再手術を決意、2度目の長期欠場に入った。 2000年には田口トモロヲ主演の映画『Mask DE 41』に架空のマスクマン、レッド・ファルコン役で出演するが、その直後に起きた映画制作会社であるサンセントシネマワークスの解散と新会社ランブルフィッシュ設立等のため、映画が公開されたのは2004年のことだった。 2001年5月の川崎球場大会で欠場から復帰してサスケとタッグを結成し雁之助&黒田組に勝利。10月22日、後楽園ホールの対マンモス佐々木戦でハヤブサは試合中のアクシデント(ラ・ブファドーラの失敗)により頸髄を損傷する重傷を負った[4]。
経歴
デビュー
全日本プロレス参戦
H(エイチ)への一時的な改名
頸髄損傷と歌手への転身
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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