ハヤフサヒデト
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ハヤフサ ヒデト
本名広瀬 数夫(ひろせ かずお)
別名義隼 秀人
ハヤブサ ヒデト
八代 哲
八代 毅
生年月日 (1904-11-07)
1904年11月7日
没年月日 (1991-06-11) 1991年6月11日(86歳没)
出生地 日本 広島県広島市舟入町
死没地 日本 埼玉県
身長160cm
職業俳優映画監督脚本家
ジャンル劇映画時代劇現代劇、冒険活劇、サイレント映画トーキー映画
活動期間1923年 - 1953年
配偶者琴路美津子(死別)
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ハヤフサ ヒデト(隼秀人、1904年(明治37年)11月7日 - 1991年(平成3年)6月11日)は、日本俳優映画監督脚本家。本名は広瀬 数夫(ひろせ かずお)。

昭和の鳥人と呼ばれ、日本映画に冒険活劇というジャンルを切り拓いた戦前期のアクション・スター。日本に於ける"スタントマンのいらないアクション・スターの元祖といわれる[1]。 
来歴・人物

広島県広島市舟入町(現中区舟入町)出身。呉市説もある。身長160センチ、体重62キロと小柄ながらずば抜けた運動神経の持ち主で、旧制中学を二年で中退後、柔道教師を経て1923年伊太利サーカス団入団。生来の身軽さを活かし、翌1924年の京都巡業で日本人として初めて空中飛行を成功させるなど、空中飛行専門士として活躍した。柔道は三段で大日本武徳会で柔道教師をしていたといわれる[1]1926年尾上松之助の知人の紹介で日活入社。芸名を「隼秀人」とし1927年水戸黄門』、『剣侠』などに出演。同年退社し東亜キネマ入り。ここでスポーツの万能さを見込まれ、怪奇時代劇『慶安妖飛録』の主役に抜擢される。1931年大江秀夫監督の『踊る若者』で現代劇に転じ、大正時代に「鳥人スター」として鳴らした高木新平に対して昭和の鳥人スターと呼ばれ、大江とのコンビで数々の活劇・冒険物に主演し人気を博した。

東亜キネマが代行会社・東活映画に受け継がれると原作・台本なども手がけ東活解散後、1932年宝塚キネマを経て1933年、同社が経営難から製作停止となると、大江とのコンビで大都映画に迎えられた。1934年の『与太者学第一課』から「ハヤブサヒデト」と片仮名にし、1935年『闇に叫ぶ狼』からは「八代哲」、「八代毅」[2]名で監督にも進出。『跳ね廻る鳥人』『裏街の大統領』『肉弾鉄壁突破』『俺の運ちゃん時代』『結婚突撃隊』『無敵乱闘王』『大当り冒険王』『消ゆるオートバイ』『街の爆弾児』『驀走する与太郎』『俺は駄々っ子』『空飛ぶ青春』など、この大都映画時代に、主演作約70本、監督作60本、自作自演の監督兼主演作約48本と獅子奮迅の活躍を見せ、大都映画の看板スターとして一世を風靡した。スタントマンなしで、ビルからビルに飛び移り、バイクでもビルの屋上や線路を疾走。サーカス仕込みの派手なアクションで大人も子供も夢中にさせた。これらは戦後の月光仮面などの原型ともいわれる。また私生活でも撮影所に颯爽とバイクで乗り付け、共演した人気女優・琴路美津子(大都映画創立者・河合徳三郎の娘)と結婚、サクセスストーリーを体現した。

1940年、映画会社の新編成にはみ出し大都を退社。戦時に満州映画(満映)に招かれる。渋る妻を伴い満映監督の肩書きを持って悠々満州に渡る。第2の李香蘭づくりを指令され、新京の放送局から歌の上手な娘を自らスカウトし「顧萍」の芸名で『月弄花影』を撮るがうまくいかなかった。他に芦田伸介のデビュー映画『血銭芙蓉』など、本名「広瀬数夫」名で3本の作品を監督し終戦。満映理事長・甘粕正彦には可愛がられ、甘粕が自殺に服用した青酸カリを渡したのはハヤフサという。戦後の混乱で妻を病気で亡くした後、自身も命からがら帰国。1948年松竹入りし江戸川乱歩原作の『一寸法師』に出演しカムバック。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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