ハミルトン・フィッシュ3世
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その他の同名の人物については「ハミルトン・フィッシュ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ハミルトン・フィッシュ3世
Hamilton Fish III


アメリカ合衆国下院議員
ニューヨーク州ニューヨーク26区選出
任期
1920年11月2日 ? 1945年1月3日
前任者エドムンド・プラット(英語版)
後任者ピーター・A・クイン(英語版)
ニューヨーク州議会議員
パットナム区選出
任期
1914年1月1日 ? 1916年12月31日
前任者ジョン・R・イェール(英語版)
後任者ジョン・P・ドノホー

個人情報
生誕 (1888-12-07) 1888年12月7日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ギャリソン
死没1991年1月18日(1991-01-18)(102歳)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州コールドスプリング
政党共和党
配偶者グレイス・チャピン
(m. 1920; d. 1960)
マリー・ブラックトン
(m. 1967; d. 1974)
アリス・デスモンド
(m. 1976; div. 1984)
リディア・アンブロジオ (m. 1988)
親戚ハミルトン・フィッシュ(祖父)
ハミルトン・フィッシュ5世(英語版)(孫)
ニコラス・フィッシュ2世(英語版)(伯父)
ストイフェサント・フィッシュ(英語版)(叔父)
子供ハミルトン・フィッシュ4世(英語版)
リリアン・ヴェロニカ・フィッシュ
エリザベス・フィッシュ
親ハミルトン・フィッシュ2世(英語版)(父)
エミリー・マン(母)
出身校ハーバード大学

ハミルトン・ストイフェサント・フィッシュ(英語: Hamilton Stuyvesant Fish、1888年12月7日 - 1991年1月18日)は、アメリカ合衆国軍人政治家。ハミルトン・フィッシュ3世、ハミルトン・フィッシュ・ジュニアとしても知られる。

ニューヨーク州出身。ニューヨーク州の政治で長く活躍した一家に生まれ、自らも1920年から1945年にかけてアメリカ合衆国下院議員を務めた。在任中は、アメリカ合衆国の対外介入に反対したことで有名で、フランクリン・ルーズベルト大統領を批判した。1990年に102歳の誕生日を祝った時点では、フィッシュはアメリカ合衆国議会議員経験者として最年長の存命のアメリカ人であった。
家系と生い立ち

ニューヨーク州ギャリソンにて、元共和党所属アメリカ合衆国下院議員の父ハミルトン・フィッシュ2世(英語版)と母エミリー・マンの間に生まれる。父方の祖父ハミルトン・フィッシュは共和党所属のユリシーズ・グラント大統領の下でアメリカ合衆国国務長官を務めた。初代ハミルトン・フィッシュの父であるニコラス・フィッシュ(1758年生まれ)は大陸軍の士官であったが、後にジョージ・クリントン知事からニューヨーク州の軍務局長 (adjutant general) に任命された。[1]ピーター・ストイフェサント(1660年)

ニコラス・フィッシュの妻はエリザベス・ストイフェサントで、オランダのニューアムステルダム植民地総督ピーター・ストイフェサントの末裔である。ハミルトン・フィッシュ3世は、母のエミリー・マンを通して、1636年にコネチカット州ハートフォードに入植したトーマス・フッカー(英語版)の末裔でもある。フィッシュの伯父イライアス・マンは、判事及びニューヨーク州トロイ市の市長を3期務めた。[1]

フィッシュの曽祖母スーザン・リヴィングストンは、大陸会議サウスカロライナ州代表であった夫ジョン・ケインを亡くした後、1800年にユリアン・ウルスィン・ニェムツェヴィチ伯爵と再婚した。軍人で政治家でもあったニェムツェヴィチは、ポーランドの5月3日憲法を書いた人物だと信じられている。フィッシュはジョン・ケインとスーザン・リヴィングストンの曽孫であるがゆえに、1982年にニュージャージー州知事に選ばれたトーマス・ケインはフィッシュの親戚である。[2]

(ハミルトン・フィッシュ(英語版)とも名付けられた)ハミルトン・フィッシュ3世の従兄弟は、セオドア・ルーズベルトラフ・ライダーズのL中隊の軍曹であったが、米西戦争で戦死した最初のアメリカの軍人となった。ハミルトン・フィッシュ2世は戦死したフィッシュの従兄弟に敬意を表して、10歳になる息子フィッシュの名前を法的にハミルトン・ストイフェサント・フィッシュから単にハミルトン・フィッシュに変更した(この従兄弟とハミルトン・フィッシュ3世は決して会ったことはなかった)。[3]

フィッシュは1921年に元ブルックリン市長アルフレッド・C・チェイピン(英語版) (1848?1936) の娘、グレイス・チェイピン・ロジャース (1885?1960) と結婚した。二人の間に生まれた息子ハミルトン・フィッシュ4世(英語版)は、ニューヨーク州選出のアメリカ合衆国下院議員を1969年から1995年まで13期務めた。フィッシュ夫妻の娘リリアン・ベロニカ・フィッシュは、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの息子デービッド・ホイットミア・ハーストと結婚した。[4]
教育ハーバード大学時代のハミルトン・フィッシュ

子どもの頃、フィッシュはジュネーブに近いスイスの学校シャトー・ド・ランシー (Chateau de Lancy) に通った。この学校はフィッシュの父も1860年に通っていた学校であった。そこでは、(息子の)フィッシュはフランス語を学び、サッカーをした。夏は家族と一緒にバイエルン州で過ごした。マサチューセッツ州サウスボロ(英語版)にあるフェイ・スクール(英語版)というアメリカの全寮制学校の教育を受け始めたが、その後は共に同じサウスボロにあったセント・マークス・スクール(英語版)とプレップ校に通った。フィッシュは後に自身をB学生であったと自叙しているが、複数の異なるスポーツで成功した。[5]

1906年にセント・マークス・スクールを卒業したフィッシュは[6]ハーバード・カレッジに進学して通い、1910年度卒業生となった。大学では、ハーバードのアメリカンフットボールチーム(ポジションはタックル)でプレーし、ポーセリアンクラブ(英語版)の会員であった。身長6フィート4インチ (1.93 m)、体重200ポンド (91 kg)の"ハム"・フィッシュ ("Ham" Fish) は、カレッジフットボールの全米チームのメンバーに2回選ばれ、1954年にはカレッジフットボール殿堂(英語版)入りするなど、フットボール選手として大成功であった。[7]フィッシュはイェール大学卒業生ウォルター・キャンプ(英語版)のAll time All Americaチームに属した唯一のハーバード大学出身者であった[8]。ハーバード大学卒業後も、フィッシュはフットボールに没頭し続けた。ハーバードのフットボール選手に授与されるいくつかの賞のために5000ドルを寄付したほか、ハーバード・ロー・スクールのフットボールチームを組織して全国の他の大学とのエキシビション試合を行った。[9]

1909年、二十歳になったフィッシュは歴史と政府の専攻においてカム・ロードの学位を授与されてハーバード大学を早く卒業した。フィッシュはハーバードで歴史を教えるよう誘われたが、これを丁重に断り、その代わりにハーバード・ロー・スクールに通った。[10]フィッシュはロー・スクールを卒業する前に自主退学し、ニューヨーク市の保険事務所に就職した。[11]


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