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ハプスブルク=ロートリンゲン家
Haus Habsburg-Lothringen
ハプスブルク=ロートリンゲン家の紋章
左はハプスブルク家の紋章、中央部はオーストリアを象徴する赤・白・赤の意匠、右はロートリンゲン家の紋章
国 神聖ローマ帝国
オーストリア帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
メキシコ帝国
トスカーナ大公国
モデナ公国
パルマ公国
主家ハプスブルク家(女系)
ロレーヌ家(男系)
創設1736年[注釈 1]
家祖フランツ・シュテファンとマリア・テレジア
現当主カール・ハプスブルク=ロートリンゲン
滅亡オーストリア=ハンガリー:
1918 ? カール1世は、第一次世界大戦の終結後、国事不関与を宣言
分家
オーストリア=エステ家(1771 ? )
ハプスブルク=トスカーナ家(1790 ? )
ハンガリー宮中伯家(英語版)(1796 ? )
ハプスブルク=テシェン家(1822 ? 1955)
メラン家(1845 ? )
ホーエンベルク家(英語版)(1900 ? )
ハプスブルク=ロートリンゲン家(ハプスブルク=ロートリンゲンけ、独: Haus Habsburg-Lothringen)は、ロレーヌ家出身の神聖ローマ皇帝兼トスカーナ大公(元ロレーヌ公)フランツ・シュテファン(フランツ1世)とハプスブルク家のオーストリア女大公兼ハンガリー・ボヘミア女王マリア・テレジア夫妻に始まる家系である。
神聖ローマ皇帝カール6世は男子に恵まれず、長女マリア・テレジアの婿としてロレーヌ公フランツ・シュテファンを迎えて帝位を継がせた。従ってハプスブルク家はマリア・テレジアの代で男系が絶えており、以後はハプスブルク=ロートリンゲン家が正式名称である。これはハプスブルク家のライオンとともにロレーヌの公章が描かれた紋章にも表れている。
現在の家長は、最後のオーストリア皇帝カール1世の孫のカール・ハプスブルク=ロートリンゲン。
概要
ロレーヌ家「ロレーヌ家」、「ロレーヌ公国」、および「ロレーヌ公」も参照
ロレーヌ家は、現在はフランスのドイツとの国境地帯であるロレーヌ地方にあったロレーヌ公国を統治した家系である。ロレーヌは古のロタリンギアに由来し、カロリング朝期にはフランク王国の心臓部とも言うべき場所であった。従って領域は小さいものの、地理的には非常に重要な位置にあるため、その帰属を巡って紛争が絶えなかった。15世紀にはブルゴーニュのシャルル突進公が自領の間に挟まったロレーヌの併合を企てたが、ナンシーの戦いに敗れて自身とブルゴーニュ公国の破滅を招いた。この戦いで突進公を敗死させたロレーヌ公ルネ2世は、フランツ・シュテファンの直接の先祖である(ちなみにフランツ・シュテファンはシャルル突進公の血も引いている)。ルネ2世は母方のヴァロワ=アンジュー家から公位を継承しているが、父方のヴォーデモン家は母方の祖母イザベル女公まで続いていたロレーヌ家(シャトノワ家)の傍系であり、以後フランツ・シュテファンまでの歴代のロレーヌ公はこの家系から出た。また、ルネ2世の次男ギーズ公クロードに始まる分枝のギーズ家は、ヴァロワ朝後期にフランスで権勢を振るった。
1630年代以降、ロレーヌ公国はたびたびフランス王ルイ14世の侵略を受け、ロレーヌ公の一族はオーストリアへ亡命してハプスブルク家の皇帝に仕え、以後もハプスブルク家との関係を深めた。14世紀初め、アルブレヒト1世の娘エリーザベトとロレーヌ公フェリー4世の結婚からハプスブルク家とロレーヌ家の関係は始まっていたものの、それまでロレーヌ家はフランス王家との関係が強かった。シャルル5世は在位中に公国を統治できず名目のみに終わったロレーヌ公であるが、皇帝フェルディナント3世の娘エレオノーレと結婚し、嗣子レオポルトをオーストリア領内でもうけている。レオポルトは1697年のレイスウェイク条約でロレーヌを一旦返還され、翌1698年にルイ14世の姪エリザベート・シャルロットと結婚した。フランツ・シュテファンは2人の間の息子である。
フランツ・シュテファンはロレーヌ家の当主であり、皇帝フェルディナント3世とフランス王ルイ13世の曾孫でもあった。又従妹であるマリア・テレジアとは恋仲であったが、結婚とともに帝位継承者となるに際して、その国際的承認と引き換えにロレーヌをフランス王ルイ15世に譲渡しなければならなかった。ルイ15世はロレーヌ公位を舅の元ポーランド王スタニスワフ・レシチニスキに与え、その死後にフランス王領へ併合した。代償としてフランツはトスカーナ大公国の大公位を継承した。