「ハプスブルク」「ハプスブルグ」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ハプスブルク (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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ハプスブルク家
Habsburg
帝国と王朝
ハプスブルク家の紋章
国 ハプスブルク帝国
・ オーストリア大公国
・ ハンガリー王国
・ クロアチア王国
・ ボヘミア王国
神聖ローマ帝国
ハプスブルク・スペイン
・ ハプスブルク領オランダ
・ ポルトガル王国
・ ナポリ王国
・ シチリア王国
主家エティション家
創設11世紀
家祖ハプスブルク伯ラートボト
最後の当主マリア・テレジア
現当主カール・ハプスブルク=ロートリンゲン
断絶1780年11月29日
民族ドイツ系アルザス人
分家父系:
スペイン・ハプスブルク家(断絶)
ハプスブルク=ラウフェンブルク家(ドイツ語版)(断絶)
キーブルク家(断絶)
母系:
ハプスブルク=ロートリンゲン家
標語:A.E.I.O.U
ハプスブルク家の旗
ハプスブルク家(ハプスブルクけ、ドイツ語: Haus Habsburg、スペイン語: Casa de Habsburgo)は、オーストリア家( 独: Haus Osterreich、西: Casa de Austria)とも呼ばれる、ヨーロッパの歴史上最も著名で重要な王朝の一つである[1][2]。
ハプスブルク家の名前は、1020年代にクレトガウのラートボトによって現在のスイスに建てられた要塞、ハプスブルク城に由来する。彼の孫であるオットー2世は、この要塞の名前を初めて自分のものとし、その称号に「ハプスブルク伯爵」を加えた。1273年、ラートボト伯爵の7代目の子孫であるハプスブルク家のルドルフがローマ王に選出された。バーベンベルク家の消滅と、1278年のマルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したことを機に、息子たちをオーストリア公家に任命して一族の権力基盤をウィーンに移し、ハプスブルク家は「オーストリア家」の名を得て、1918年まで統治することになった。
神聖ローマ帝国の王位は、1440年から1740年に男系が絶えるまで、フランツ1世の死後は1765年から1806年の解散まで、ハプスブルク家が継続して占有している。ハプスブルク家は、ボヘミア、ハンガリー、クロアチア、スペイン、ポルトガル、ガリツィア・ロドメリアとそれぞれの植民地の王、低地とイタリアの諸公国の支配者、19世紀にはオーストリアとオーストリア=ハンガリーの皇帝、メキシコ皇帝1人を輩出している。16世紀半ば、カール5世の退位に伴い、スペインとオーストリアに分かれ、別々の領土を治めたが、両家は密接な関係を保ち、頻繁に婚姻を繰り返した。
ハプスブルク家の人々は、金羊毛騎士団と聖ゲオルギオス王立騎士団のオーストリア支部を統括している。現在の当主はカール・フォン・ハプスブルクである。 家名の「Habsburg」は、ドイツ語ではドイツ語発音: [?ha?psb??k]
呼称
主な君主位
神聖ローマ皇帝(断続的に1273年 - 1806年)、ドイツ国王[注釈 3]、ローマ王[注釈 4]
オーストリア君主(オーストリア公として1278年 - 1453年、オーストリア大公として1453年 - 1806年/1918年)