ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件事件の概要
日付1994年4月6日 (1994-04-06)
概要地対空ミサイルによる攻撃を受け墜落。
現場 ルワンダ キガリ
乗客数9
乗員数3
負傷者数0
死者数12(全員)
生存者数0
機種ダッソー ファルコン 50
機体記号9XR-NN
出発地 タンザニア ジュリウス・ニエレレ国際空港
経由地 ルワンダ キガリ国際空港
目的地 ブルンジ ブジュンブラ国際空港
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ルワンダ虐殺
背景
ルワンダの歴史
ハビャリマナとンタリャミラ両大統領暗殺事件(ハビャリマナとンタリャミラりょうだいとうりょうあんさつじけん)は、1994年4月6日夕刻に発生し、ルワンダ虐殺を触発する引き金となった事件である。この日、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領を乗せた旅客機が、ルワンダの首都キガリに着陸する際に撃墜された。犯人はいまだに判っていないが、当時の反体制派だったルワンダ愛国戦線(RPF)か、または体制側のフツの中でRPFとの交渉に反対していた過激派、のいずれかとするおもに2つの説がある。 1990年、ツチが支配するルワンダ愛国戦線(RPF)がウガンダからルワンダ北部に侵攻したことでルワンダ内戦が始まった。RPFの戦闘員の大半は、20世紀半ばにフツ政権による民族排斥から逃れた難民かまたはその子だった。政権転覆は成らなかったが、RPFは国境地帯に地歩を確立した[1]。戦況が膠着したのが明らかになると、両者は1992年5月より和平交渉を始め、これは1993年8月のアルーシャ協定調印に結実して連立政権が作られることとなった[2]。 しかしながら、戦争は内部対立を激化させていた。RPFの脅威の増大によって、所謂フツ・パワーイデオロギーがフツ内で支持を得た。フツ・パワーの立場からは、RPFはツチ独裁の復活とフツの奴隷化を目論む外敵として捉えられ、あらゆる犠牲を払ってでも阻止すべきものとされた[3]。この政治勢力の影響により、ハビャリマナ大統領はディスマ・ンセンギヤレミェ
背景と序章
1993年を通じて治安状況は悪化した。武装したフツ民兵はツチを国中で襲撃し、フツ・パワーの指導層は治安部隊をジェノサイドに転用する方策がないか検討し始めた[5]。1994年2月、国際連合ルワンダ支援団(UNAMIR)配下の軍事部隊を率いるロメオ・ダレール総司令官は次のように述べた。
「政治的議論の時間は尽きようとしている。今や治安面での僅かな火花が破滅的結果を招きかねない」[6]。
ルワンダ大統領ジュベナール・ハビャリマナ、1980年
1994年4月初頭、国連安保理において、アメリカと非常任理事国はUNAMIRを巡り鋭い対立を見せた。アメリカの中央情報局(CIA)が2月に纏めた秘密報告は、アルーシャ協定の破綻は50万人の死を招くと予見していたが、米国は先立ってのソマリア内戦の痛手から国連の平和維持活動への積極参加を見直そうとしており、UNAMIRの終了に向けてロビー活動を行っていた。4月5日火曜日の夕刻、UNAMIRの活動を三か月間延長するという妥協案が漸く合意を見た。この間、ハビャリマナ大統領は諸国歴訪を終えて帰国しようとしていた。4月4日にはザイール(現:コンゴ民主共和国)に飛んでモブツ・セセ・セコ大統領と会談し、6日にはタンザニアのダルエスサラームに日帰り予定で飛んでタンザニア大統領主催の近隣国首脳会談に出席した[7]。その日の夕刻、帰路の飛行機にはブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領とその閣僚数人も便乗した。これはフランス政府がハビャリマナ大統領に贈った専用機ダッソー ファルコン 50が、ンタリャミラ大統領自身の専用機よりも高速だったためである[8]。
ジャン・カンバンダ暫定首相(en)がルワンダ国際戦犯法廷(ICTR)で証言したところによると、ザイールのモブツ大統領から「4月6日はダルエスサラームに行くな」との警告があった。モブツ大統領は「この警告はパリのエリゼ宮殿の非常な高官が発したものだ」と述べたという。モブツ大統領によれば、この警告と撃墜事件(後述)の翌7日に発生したフランソワ・ミッテラン大統領の側近のフランソワ・ド・グロスーヴル(en)の自殺事件の間には関連があるという[9]。
撃墜事件大統領専用機として使われていたダッソー ファルコン 50の同型機
現地時間午後8時20分(UTC午後6時20分)の少し前、大統領専用機は晴天の中でキガリ国際空港上空を一周してから着陸への最終アプローチに入った[10]。本来はUNAMIRの兵士を乗せて戻ってきていたベルギーの週次便C-130ハーキュリーズが先に着陸する予定だったが、両大統領の搭乗機を優先することとなった[11]。
地対空ミサイルがダッソー ファルコン 50の一方の主翼に命中し、続いて2発目が尾部に命中した。機体は空中で火を噴いて大統領宮殿の庭に墜落し、地表激突時に爆発した[10]。旅客機には3人のフランス人乗務員と9人の乗客が乗っていた[12]。
この攻撃の様子は多数の人々によって目撃された。空港が位置するカノンベ(Kanombe)地方の家の庭に居合わせたベルギー人士官2人のうちの1人は、まず1発目のミサイルが上空に昇っていく様子、続いて空中の赤い閃光と航空機のエンジンが停止する音、そして2発目のミサイルが昇って行く様子を直に見て聞いた。彼は直ちにルワンダの空挺コマンド大隊に配属されたフランス人部隊(CRAP(en))に所属するド・サン=クエンタン少佐に通報した。少佐はベルギー人の防衛を組織するよう勧めた。これと同様に、未使用の空港管制塔に居合わせた別のベルギー人士官は、進入してくる飛行機の灯、それを目掛けて地上から上昇する光、ついで飛行機の灯が消える様を目撃した。続いて地上の同じ場所から2つ目の光が上昇し、飛行機は落下する火球と化した。この士官は直ちに彼の中隊長に無線連絡し、中隊長は正規の管制塔と連絡を取って飛行機が大統領機だったことを確認した[13]。
滑走路の外れの空港近くにはカノンベ駐屯地があった。同駐屯地に居たあるルワンダ軍人は次のように回想した。
あのエンジン音は他の飛行機とは違っていた。そう、大統領機のエンジン音だ … 我々が飛行機が来る方向を見ていたら、発射物が見えて、火か閃光の玉が見えて、そして飛行機が墜落するのが見えた。私も見た。私は隊の指揮官だったので、兵士達に「キナニ(ハビャリマナ大統領のあだ名。