Hapag-Lloyd AG
種類公開 (AG)
市場情報FWB: HLAG
ハパックロイド(ドイツ語: Hapag-Lloyd)はドイツの海運会社・海上コンテナ運送会社。ハンブルクに本社を置く。
沿革(ドイツ語版)(ハンブルク・アメリカ小包輸送株式会社、Hamburg-Amerikanische Packetfahrt-Actien-Gesellschaft, 略称ハパック、Hapag)とブレーメンのノルトドイッツァー・ロイド(ドイツ語版)(Norddeutscher Lloyd)の合併によりハパックロイドが誕生した。いずれも19世紀半ばに発足し、第一次世界大戦前にはドイツとアメリカ合衆国はじめ世界各国を結ぶ航路に数々の豪華客船を運行させ名をはせたフラッグキャリアだったが、第一次大戦と第二次大戦で保有する船団が撃沈されたり敵国に没収されたりする大打撃を受けた。
第二次大戦後は西ドイツの「経済の奇跡」と呼ばれる復興で戦前以上の規模を有するようになったが、客船は旅客機に客を取られたため、活路を貨物輸送およびクルーズ業に見出した。さらに1960年代後半には世界の物流業界にコンテナ化革命の波が押し寄せ、ライバルだった両社は1968年、港湾のコンテナ化やコンテナ船建造にかかる巨額の投資を合同で行うためにコンテナ船海運会社を合同で設立し、それをきっかけに1970年の両社合併へと至った。
ハパック詳細は「ハンブルク・アメリカ・ライン」を参照
ハンブルク・アメリカ・ライン(ドイツ語版、英語版)(ハパック)は1847年5月27日にハンブルクの名だたる商人が出資して誕生し、帆船でアメリカへの移民や貨物を輸送する会社として出発した。やがて蒸気船の船団をそろえ、カナダや南米にも路線を伸ばし、イギリスのキュナード・ライン、ブレーメンの北ドイツ・ロイド社やハンブルクの大西洋横断海運(イーグルライン)、ロッテルダムのホーランド・アメリカライン、アントワープのレッドスターラインなどとヨーロッパ・ニューヨーク間の路線で競争を繰り広げた。豪華客船「インペラトール」(Imperator)
特に1880年代後半からはドイツ系ユダヤ人の実業家アルベルト・バリーン(ドイツ語版、英語版)(アルベルト・バリン)が重役に、後に社長に就任し、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との関係を深め、アメリカ路線への超大型客船の投入や東アジア路線開設、地中海クルーズ市場の開拓などの攻撃的な経営を推し進めた。1901年、クーン・ローブが百万単位でハパックの株を購入、5年後にはM・M・ヴァールブルク&COがハパックの資金調達を担当する銀行借款団に参加した。マックス・ウォーバーグがバリーンを庇護し、バリーンはマックスを役員に加えた[2]。
「ドイッチュラント」は国威発揚の意味から高速船として建造され大西洋最速横断の船に与えられるブルーリボン賞を奪取している。1912年からはインペラトール(Imperator)、ファーターラント(Vaterland)、ビスマルク(Bismarck)の5万総トン級客船3隻を相次いで建造した。しかし第一次世界大戦の結果、175隻あった船団の多くがアメリカに抑留または敵国に撃沈された。絶望したアルベルト・バリーンは第一次大戦終結の数日前、睡眠剤を飲んで自殺した。5万総トン級客船3隻は英米に戦時賠償として没収され、イギリスのホワイト・スター・ラインとキュナード・ラインの主力客船となった。
戦後は政府の支援で船舶の建造・買収などによって船団の再建を進め、ドイッチュラントなどアルベルト・バリーン級豪華客船4隻などを発注し、1923年には78隻まで船団の規模を回復し、さらに北ドイツ・ロイドとの合弁の航空会社「ドイッチェン・アエロ・ロイド」(現在のルフトハンザにつながる)の創設、同業他社の買収やアジア・アフリカ路線の開設も進めた。しかし大恐慌で苦境に陥り、第二次世界大戦ではまたしても船舶の他国での抑留や潜水艦・空襲による撃沈という打撃を受けた。
戦後H. J. メルク商会(現・バークレイズ)をメインバンクとし再び船団を回復したが、次第に旅客を航空会社に取られ、1960年代以降は貨物運送と豪華クルーズ船に専念するようになった。その後、コンテナ化に対応した投資を行うに当たり、以前から路線の共同運航などで手を組むことが多かった北ドイツ・ロイドとの合弁事業を行い、合併へと至るようになる。
北ドイツ・ロイド詳細は「北ドイツ・ロイド」を参照豪華客船「カイザー・ヴィルヘルム2世」1910年にヨハン・ポッペの設計で完成したブレーメンの北ドイツ・ロイド汽船本社。