ハバディグレイス_(メリーランド州)
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ハバディグレイス

City of Havre de Grace, Maryland
コンコード・ポイント灯台、ハバディグレイスの象徴的存在。サスケハナ川河口に立つ
メリーランド州におけるハーフォード郡(右上図)と同郡におけるハバディグレイス市の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度32分54秒 西経76度5分51秒 / 北緯39.54833度 西経76.09750度 / 39.54833; -76.09750座標: 北緯39度32分54秒 西経76度5分51秒 / 北緯39.54833度 西経76.09750度 / 39.54833; -76.09750
アメリカ合衆国
 メリーランド州
ハーフォード郡
法人化1785年
政府
 ? 市長ウィリアム・マーティン
面積[1]
 ? 合計6.89 mi2 (17.85 km2)
 ? 陸地5.50 mi2 (14.24 km2)
 ? 水域1.39 mi2 (3.60 km2)  20.17%
標高56 ft (17 m)
人口(2010年国勢調査)[2]
 ? 合計12,952人
 ? 推計(2013年[3])13,501人
 ? 密度2,354.9人/mi2 (909.2人/km2)
等時帯UTC-5 (東部標準時)
 ? 夏時間UTC-4 (東部夏時間)
郵便番号21078
市外局番410
FIPS code24-37600
GNIS feature ID0590437
ウェブサイト ⇒www.havredegracemd.com
チェサピーク湾の衛星写真、サスケハナ川が注いでいる。ハバディグレイス市はその南西岸、ペリービル市が北東岸にある

ハバディグレイス(: Havre de Grace、[?hav?r d???re?s] ( 音声ファイル),[4]、略号はHdG)は、アメリカ合衆国メリーランド州ハーフォード郡に位置する都市である[5]チェサピーク湾の奥、サスケハナ川の河口に位置している。市名はフランスの港湾都市ル・アーヴル(意味は「港」)から採られており、その正式名称は「優美さの港」を意味するフランス語「Le Havre de Grace」であり、これを英語読みしたものである。2010年国勢調査での人口は12,952 人だった。2014年、雑誌「スミソニアン」からアメリカで訪問したい小さな町20傑の1つに挙げられた[6]
歴史サイオンヒル、1936年撮影
開拓初期

アメリカ独立戦争のとき、ハーマーの町と呼ばれた小集落を何度か、戦争の英雄と考えられていたラファイエット侯爵が訪れた。ラファイエットはこの地域がフランスの港町ル・アーヴルを思い出させると言っていた。ル・アーヴルは元々「ル・アーヴル・ド・グラーセ」という名前だった。このラファイエットの話にヒントを得て、住民は1785年に町の名前を「ハバ・ディ・グレイス」として法人化した。
19世紀

米英戦争中の1813年5月3日、イギリス海軍ジョージ・コックバーン少将の部隊がハバディグレイスを攻撃し、町を焼き、略奪した[7]。アメリカ軍のジョン・オニール中尉が単独で大砲を操作し、町の防衛に貢献した。オニールは負傷し、イギリス軍に捕らえられたが、間もなく解放された。ハバディグレイスはこれに感謝の意を表すために、オニールとその子孫を、サスケハナ川河口にあるコンコード・ポイント灯台の世襲灯台守に指名した。

ハバディグレイスの初期産業は、牡蠣と蟹の採集、および広大な果樹園栽培があった。商品は東海岸と上流の市場に出荷された。

町はプロプライアタズ・オブ・サスケハナ運河と後にはサスケハナ・アンド・タイドウォーター運河の南端にあり、ハバディグレイスとペンシルベニア州ライツビルの間のサスケハナ川下流で船の航行が難しい場所をバイパスし、ペンシルベニア運河と繋がれていた。1836年から1840年に建設されたが、1855年以降は貨物をより迅速に運べる鉄道との競合で、運河の利用は衰退していった。運河と閘門守衛の家やその他名残が現在も博物館として残っている[8]

ハバディグレイスはメリーランド州における地下鉄道 (秘密結社)の東ルートでは主要な町であり、奴隷はここでサスケハナ川を渡り、自由州であるペンシルベニアの隠れ家に行くことができ、さらにフィラデルフィアニューヨークに向かうことができた[9]。1840年より前、チェサピーク湾西岸にあった町から逃亡した奴隷の多くがハバディグレイスに来て、渡し船でサスケハナ川を渡り、ペンシルベニア州ランカスター郡チェスター郡の安全地帯に入った[10]。「渡し船での警戒が増えた」とき、奴隷は上流に案内され、クエーカー教徒が作っていたコロンビアから渡った[11]。町内にあった幾つかの異なる輸送ルートによって奴隷達が北の安全地帯に向かうことを可能にした。

ハバディグレイスはカモ猟で知られるようになり、狩人が季節によって訪れる場所になった。彼らは町のホテルに滞在し、土地の案内人を雇い、川沿いや湾沿いで狩猟した。土地の工芸者も高い品質のデコイ(囮にする鳥の模型)を作ることで知られるようになり、それが市内のデコイ博物館に収められている。

1860年代までに自由になったアフリカ系アメリカ人が大量に町に定着し、その集中によって独立した工芸人を支え、また川や運河での輸送に関わる仕事があり、それがまた鉄道輸送に関わって増えて行った。南北戦争のとき、アメリカ有色人連隊のために兵士を徴募した7か所の1つとなった。ハーフォード郡の潮汐が影響する地域にあるが、大きなプランテーションがあり、奴隷所有者がいた。市内の川や運河はペンシルベニア州やその向こうの工業地帯と結びつき、交易に繋がった。これらによって自由黒人には都市での仕事があり、白人の間でも北部の同調者の比率が非常に高かった。

1878年、町は市となり、独自の政府を樹立した。

それから間もなく、スティーブン・J・セネカがS・J・セネカ倉庫で食品加工場を開き、ハバディグレイスのウォーターフロントでは缶詰工場を操業した。セネカはその特許で缶詰を改良した。特許は1889年の缶のハンダ付け機械[12]、1891年の同じく缶のハンダ付け機械[13] があった。1899年には、セネカは缶詰商品のブローカーとなっていた。最初の鉄道はセントクレア通り(現ペニントン・アベニュー)を工場のある川まで降っていたので、水路でも鉄道でも輸送に利点があった。第二次世界大戦まで、ハーフォード郡の多くの農夫が商品をセネカの工場、後のストッカムズ・カナリーに運んできた。S・J・セネカはユニオン・アベニュー北200に住んでおり、1893年から1894年にはハバディグレイスの市長を務め、メソジスト教会に寄付をした[14]

セネカの缶詰工場は現在アンティークの店に使われており、19世紀後半のレンガ造り工業用ビルの良い例であり、とくに古典的なファサードや、背面の量感のある石造控え壁が特筆される。
20世紀

S・J・セネカ缶詰工場の開設後に多くの特許が続いた。

梱包プレス、1901年
[15]


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