ハノーファー選帝侯領
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ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領
ハノーファー選帝侯領
Kurfurstentum Braunschweig-Luneburg
Kurfurstentum Hannover
神聖ローマ帝国領邦(1692年 - 1806年)
グレートブリテン王国同君連合(1714年 - 1800年)
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国と同君連合(1801年 - 1807年)


1692年?1807年



国旗国章

1789年時点のハノーファー選帝侯領
首都ハノーファー
言語低ザクセン語
政府公国
選帝侯
 ? 1692年 ? 1698年エルンスト・アウグスト
 ? 1698年 ? 1727年ゲオルク・ルートヴィヒ
 ? 1727年 ? 1760年ゲオルク・アウグスト
 ? 1760年 ? 1806年ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ
歴史
 ? 選帝侯領に昇格1692年
 ? リューネブルク侯領ザクセン=ラウエンブルクを相続1705年
 ? 選帝侯昇格が承認される1708年
 ? グレートブリテン王国同君連合1714年
 ? ブレーメン=フェルデン(英語版)獲得1715年
 ? ヴェストファーレン王国に併合1807年
 ? ハノーファー王国として再成立1814年

ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領(ブラウンシュヴァイク=リューネブルクせんていこうりょう、ドイツ語: Kurfurstentum Braunschweig-Luneburg)、またはハノーファー選帝侯領(ハノーファーせんていこうりょう、ドイツ語: Kurfurstentum HannoverまたはKurhannover)は、神聖ローマ帝国の9番目の選帝侯が領する領邦である。1692年にブラウンシュヴァイク=カレンベルク侯領を母体として成立し、1708年帝国議会によって正式に承認された

選帝侯家はヴェルフ家の後裔のブラウンシュヴァイク=リューネブルク家の一支流であるハノーファー家である。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領は相続によって分割と集合をくりかえしていた。カレンベルク侯は相続によってヴォルフェンビュッテル侯領を除くブラウンシュヴァイク=リューネブルク諸侯領を統合した。後にカレンベルク侯家はグレートブリテン王位を相続し、それ以降ハノーファー家と呼ばれる。なお、ヴォルフェンビュッテル侯領は1815年以降はブラウンシュヴァイク公国を称し、ドイツ革命まで存続した。

選帝侯が1714年にグレートブリテン王に即位したことにより、ハノーファー選帝侯領とイギリス同君連合となった。その結果、イギリスは望まなかったにもかかわらず、ドイツにおける領土と関わりを持つこととなった[1]。しかし、同君連合であるが、ハノーファーはイギリスから独立した政府を有していた。1807年にはナポレオン・ボナパルトによって成立したヴェストファーレン王国に併合されたが、1814年にハノーファー王国として再び成立した。
目次

1 正式名称

2 地理

3 歴史

3.1 グレートブリテン王国との関係

3.2 七年戦争

3.3 ナポレオン戦争


4 ハノーファー選帝侯

5 脚注

6 参考文献

正式名称

1692年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世大同盟戦争の戦功により、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家のカレンベルク侯エルンスト・アウグストを選帝侯の地位を与えた。選帝侯の追加には反対もあり、選帝侯の地位が帝国議会によって正式に承認されるのはエルンスト・アウグスト死後の1708年だった。カレンベルク侯領の首都ハノーファーは選帝侯領の別称となったが、正式にはKurfurstentum Braunschweig-Luneburg(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領)の名称を使用した。
地理 1720年時点のブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国(青)とブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯領(緑)の地図。選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒはザクセン=ラウエンブルクとブレーメン=フェルデン(英語版)を、ゲオルク・アウグストは1731年にラント・ハーデルン(英語版)(エルベ川河口)を、ゲオルク3世は1803年にオスナブリュック司教領(英語版)を獲得した。

選帝侯領は現北ドイツ(英語版)のニーダーザクセン州の大部分を占めていた。1692年に選帝侯となった時点では、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク諸侯領のうちカレンベルク侯領をはじめゲッティンゲン侯領、グルベンハーゲン侯領(英語版)を領土とした他、ディープホルツ伯領(英語版)とホーヤ伯領(英語版)も選帝侯領に含まれた。

1705年、伯父であり、舅でもあったリューネブルク公ゲオルク・ヴィルヘルムが死去したことにより、選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒリューネブルク侯領(ツェレ)とザクセン=ラウエンブルク公国を相続した。1715年にはデンマーク=ノルウェーフレデリク4世からブレーメン=フェルデン公国(英語版)を購入(1719年のストックホルム条約で確認される)、これにより内陸国であった選帝侯領が北海への出口を得た。

1700年、選帝侯領には(帝国直属(英語版)のプロテスタント領と同じように)改良暦が導入された。改良暦はプロテスタント側がローマ教皇グレゴリウス13世の名前を避けるための呼び名であった。導入の結果、ユリウス暦2月18日の後をグレゴリオ暦3月1日が続いた。
歴史詳細は「ハノーファーの歴史(英語版)」を参照


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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