Honeywell International Inc.
ノースカロライナ州シャーロットの本社
種類公開
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NASDAQ: HON
Darius Adamczyk
(会長)
Vimal Kapur
(CEO)
売上高 US$35.47 billion (2022)
営業利益 US$6.38 billion (2022)
利益 US$4.97 billion (2022)
総資産 US$62.28 billion (2022)
純資産 US$17.32 billion (2022)
従業員数c. 97,000 (2022)
子会社
Honeywell Aerospace
Honeywell Automation India
Intermec
RAEシステムズ
UOP LLC
Tridium
ウェブサイト ⇒honeywell.com
Footnotes / references
[1]
ハネウェルを象徴する丸型サーモスタット T87(スミソニアン博物館)
ハネウェル(Honeywell 、日本語読みでは「ハニウェル」とも)は、1886年に設立されたアメリカの多国籍企業であり、電子制御システムや自動化機器を製造販売している。アメリカ航空宇宙局、ボーイング、アメリカ国防総省に技術サービスやアビオニクスを提供している会社である。
フォーチュン100企業の1つであり、現在約13万人の従業員(うちアメリカ国内で58,000人)を抱える巨大企業である[2]。本社はニュージャージー州のモリスタウンにある。
現在のハネウェル・インターナショナル (Honeywell International Inc.) は、ハネウェルとアライドシグナルが1999年に合併して誕生した企業である。アライドシグナルの方が規模が大きく、ニュージャージー州モリスタウンのアライドシグナルの本社を今も本社としているが、ブランド名として有名なハネウェルを社名に残した。
ハネウェルのブランドは一般消費者にもよく知られている。特によく知られているのは住宅用サーモスタット、ギャレットのターボチャージャー、プレストン/フラム/オートライトのブランド名で売られている自動車部品などである。 ハネウェルの基盤となった技術は、アルバート・バッツ W・R・スウェットとその息子ハロルドは(1886年から)75年間、ハネウェル(とその前身であるミネアポリス・ヒート・レギュレータ)のトップに君臨し続けた。W・R・スウェットは、サーモスタットによる温度制御という革新的アイデアをビジネスとして成功させた。ハロルドは1934年にハネウェルを引継ぎ、成長と世界進出の時代を通してハネウェルを指揮し、世界的テクノロジーリーダーへと導いた。 1999年にアライドシグナルと合併するまで30年以上に渡り、ハネウェルに科学技術面で貢献した従業員を表彰する "H.W. Sweatt Engineer-Scientist Award" が毎年授与されていた。ハネウェル製サーモスタット 1943年、ジェームズ・H・ビンガー
歴史
スウェットの時代
ビンガーの経営
ビンガーはハネウェルの会長に就任するに当たり、売り上げよりも利益を重視して販売手法を改善した。また海外進出にも積極的で、海外に6つの生産拠点を作り、全生産量の12%を生産するようになった。また、社名をミネアポリス・ハネウェル・レギュレータから現在のハネウェルに変更した[4]。
1950年代から1970年代中盤まで、ハネウェルは旭光学工業(現リコーイメージング)株式会社のカメラと写真関連機器の輸入元でもあった。その製品をアメリカではハネウェル・ペンタックス (Honeywell Pentax) の名で販売した。1961年から1978年までビンガーがこの事業の責任者であり、同時に彼は軍需、航空宇宙、コンピュータの分野への事業拡大を主導した。ビンガーは1978年に会長を引退したが、亡くなるまで相談役にとどまった。後任はハネウェル・コントロール・システムズ (Honeywell Control Systems) の初代社長エドソン・スペンサー (Edson Spencer) である。
1953年、アメリカ空軍と共同で航空機のフライトの様々なステージ(タクシングや離陸から着陸の直前まで)を制御可能な自動制御装置 Automatic Master Sequence Selector を開発した(今ではありふれているが、当時は最先端技術だった)。自動ピアノのように作用して航空機のオートパイロットに命令を中継し、パイロットの負荷を大幅に減らすことができる[5]。技術的にはミサイル誘導や数値制御と似ている。 1954年、レイセオンとの合弁でメインフレーム製造の事業に進出。間もなくレイセオンの出資分を買い取ってハネウェルの部門にした。初期のコンピュータは Honeywell 800
コンピュータ事業
また、ミニコンピュータを手がけていた Computer Control Corporation を買収。1960年代、ハネウェルはコンピュータ業界で「白雪姫と7人の小人」の一社に数えられた。IBMが白雪姫であり、小人にはハネウェルの他にバロース、CDC、GE、NCR、RCA、UNIVACが数えられる。1970年、ハネウェルはGEのコンピュータ部門を買い取った。これに伴って会社組織が再編され、ハネウェル・インフォメーション・システムズ (Honeywell Information Systems, HIS) とハネウェル・コントロール・システムズ (Honeywell Control Systems) とに分かれた。RCAがそのコンピュータ事業をUNIVACに売却すると、「7人の小人」は5社に減り「BUNCH」と呼ばれるようになった[6]。メインフレーム ハネウェル-ブル DPS 7 (1990)
1963年、IBM 1401 に対抗する小型コンピュータ Honeywell 200シリーズをリリース。このシリーズは1970年代初めまで続いた[7]。日本電気は1962年ハネウェルとコンピュータに関する技術提携契約を結んだ。日本電気は Honeywell 200シリーズをNEAC2200シリーズとして発売、日本でのシェアを急速に伸ばすこととなった。
1986年、フランスのコンピューター企業ブル(Bull)および日本電気との合弁会社「ハネウェル・ブル」を設立。1991年、ハネウェルはコンピュータ部門HISをブルに売却し、コンピューター事業から完全撤退した。 ハネウェルが軍需産業に参入したのは第二次世界大戦の時であり、当時は航空機の部品を製造していた。ベトナム戦争のころから様々な製品を製造するようになった。クラスター爆弾、ミサイル誘導システム、ナパーム弾、地雷などである。 X-20プロジェクトで使用する慣性誘導サブシステムを開発し、1963年8月にNF-101Bを使った試験飛行に成功した。X-20プロジェクトは1963年12月に中止となった[8]。
軍需産業