ハニア
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ハニア

Χανι?

ハニアの聖堂
位置
ハニア (ギリシャ)ギリシャの地図を表示ハニア (クレタ島)クレタ島の地図を表示

座標 : 北緯35度31分 東経24度1分 / 北緯35.517度 東経24.017度 / 35.517; 24.017
行政
ギリシャ
 地方クレタ島
 ハニア県
ハニア

Χανι?
地理
面積 
  域12.564 km2
標高0mから200m m
人口
人口(2001年現在)
  域55,838人
    人口密度  4,444人/km2
その他
等時帯EET (UTC+2)
夏時間EEST (UTC+3)
公式ウェブサイト : ⇒[2]

ハニア(Chania、ギリシャ語: Χανι?, xa??a、HaniaまたはKhania、ヴェネツィア方言:Canea、オスマン語: ????? /Hanya)は、ギリシャの都市。クレタ島で2番目に大きく、ハニア県の県都。島北岸にあり、レシムノのおよそ西70km、ヘラクリオンの西約145kmにある。日本ではカニアとも表示される。

基礎自治体ハニアの公式な人口は55,838人だが、周辺の人口を含めた都市圏で70,000人の人口を抱える。人口密度は4,248.1/平方kmで、アテネテッサロニキの各都市圏外では最も人口密度が高い。
目次

1 地理

1.1 気候


2 歴史

2.1 古代

2.2 東ローマ時代

2.3 ヴェネツィア時代

2.4 オスマン帝国領

2.5 20世紀

2.6 第二次世界大戦

2.7 現代


3 人口の推移

4 都市の外観

4.1 旧市街

4.1.1 見どころ


4.2 現代都市


5 文化

5.1 ナイトライフ

5.2 スポーツ


6 教育

7 経済

8 交通

9 ハニア出身の著名人

10 参照

11 外部リンク

地理

ハニア市はハニア湾の東端にある。この湾は東のアクロティリ半島と西のスパタ半島の間にある広いものである。カステリ丘は市の中にある突出した光景で、かつて古代都市シドニアの中心部があった所である。丘は小さなハニア平野の目立った部分を占め、郊外のプロフィティス・イリアス、アギオス・マッテオス、コノピディアナ、ヴァムヴァコプロ村などとの境界となっている。

ハニア
雨温図説明

123456789101112
  123 169  109 179  72 1810  32 2112  14 2515  7 2919  1 3021  3 3021  18 2819  82 2416  71 2113  91 1811
気温(°C)
総降水量(mm)
出典: ⇒ΕΜΥ

インペリアル換算
123456789101112
  4.8 6148  4.3 6348  2.8 6450  1.3 7054  0.6 7759  0.3 8466  0 8670  0.1 8670  0.7 8266  3.2 7561  2.8 7055  3.6 6452
気温(°F)
総降水量(in)


気候

ハニアは典型的な地中海性気候で、日照数の多い夏と雨季にあたる温暖な冬がある。4月から10月の時期、快晴がほぼ毎日続く。空気は常に温かいが、猛烈な熱波(気温38℃以上)は珍しく、優勢で冷たく乾いたエテジア風が北から直接吹き込み、快適な状態となる。晴天日が休止するのはしばしば風が吹き雨がちとなる冬である。雪と霜は海岸ではまれであり、例外であるが、2004年2月13日の吹雪で10cmから30cmの雪が都市圏に積もったこともある。しかし、そのような低温の日の後にはさらに温かく晴れた天気が続いてやってくる。3月か4月に起こる滅多にない初期の熱波は、サハラ砂漠の塵が強く熱い南向きの下降する風にのってやってくるもので、シロッコの一種である。ギリシャ人は、『リビアからの風』という意味のリヴァスという言葉で呼ぶ。このような気象は年に2回ほどしか起こらず、状態は1日か2日以上続かない。

左記のグラフは1958年から1997年の記録を元にしたものである。今までに記録された最高気温は42.5℃で、最低気温は0℃である。しかし、最低気温の記録は2004年2月13日に破られた。この日、真昼に?1℃に達したのである。
歴史
古代 紀元前4世紀から3世紀のものとされる、墓から出土した泥製の小立像

ハニアは、ギリシャ人がキドニア(英語版)(シドニアとも。ギリシャ語でマルメロを意味する)と呼んだミノア文明の定住地のあった場所である。このミノア文明都市が現在のハニアの下にあり、一部の有名な考古学的な証拠となる出土品が、旧市街のカステリ地区から見つかっている[1]。この一帯は新石器時代から人が暮らしていた。市はミノア文明が終焉を迎えた後、古代ギリシャの重要な都市国家として再び出現した。市はハニア湾からレフカ・オリ山地の麓へ伸びる領土を持っていた。最初のギリシャ本土からの移住者の到来は、紀元前1100年頃のドーリア人による。キドニアはアプテラ、ファラサルナ、ポリリニアといったクレタ島の他都市国家と定期的に戦争状態となった。キドニアは、ホメロスオデッセイに記載されるほどキドニア人にとって十分なほど重要だった(iii.330)。紀元前69年、共和政ローマコンスル、メテルスはクレタ人を退け、キドニアを征服した。彼は市に独立した都市国家としての特権を授けた。キドニアは3世紀まで、自分たちで硬貨を鋳造できる権利を保持し続けた。
東ローマ時代

東ローマ帝国の元での原始キリスト教時代(395年 - 824年)と、続くアラブ人による支配時代、定住地がカニア(Chania)と呼ばれていたことの記述が不十分である。東ローマ時代、キリスト教が島中に伝播したが、アラブ支配時代にはキリスト教徒は迫害され、山地へと移った。961年に東ローマは市を奪還した(1204年まで支配)。ギリシャ人らは再びアラブ人が侵攻するのを防ぐために市の防衛を強力に進め、一帯にあった古代ギリシャ時代の建物から資材を用いた。この時から、ハニアは司教座となった。
ヴェネツィア時代 現在のヴェネツィアン・ポート ヴェネツィア時代の古い港

1204年の第四次十字軍コンスタンティノープルを陥落させ、ギリシャ本土での東ローマ支配が衰えると、クレタ島はボニファチオ・デ・モンフェラートへ与えられた。彼は逆に、100マルク銀貨でヴェネツィア共和国へ島を売ることにした。1252年、ヴェネツィア人はクレタ人をどうにかして打ち負かしたが、1263年に、競争相手のジェノヴァ共和国がクレタ人の支援を受け、マルタ伯エンリコ・ペスカトーレ(英語版)指揮のもと市を獲得した。この状態は1285年にヴェネツィアが奪還するまで続いた。ハニアは、地域のレクトル(行政監督職の将軍)の所在地に選ばれ、肥沃な農業地帯の突出した貿易中心地として繁栄を極めた。

ヴェネツィア支配は相対的に厳しく抑圧的だったが、ゆっくりと双方の関係は改善された。ヴェネツィアとの接触はクレタ文化とヴェネツィア文化との絡み合いを密接にしたが、クレタ人は自分たちのギリシャ正教会の伝統を失うことはなかった。市の名前はイタリア語でラ・カネア(La Canea)となり、要塞設備は強化され、このとき与えられたハニアの形態は現在もまだ残っている。一方で、1453年に東ローマ帝国が滅亡すると、多くの聖職者たちや芸術家らがクレタ島へ逃れてきて、島でのギリシャ人の信仰と文化を一層強めた。東ローマ、ヴェネツィア、古代ギリシャの文化要素が混ざり合った時代の後にハニアは続いた。市にある多くの重要な建物はこの時代に建てられ、知識的な活動(文筆、音楽、教育)も奨励された。


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