ハナ肇とキューバン・キャッツ
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ハナ肇とキューバン・キャッツ(ハナはじめとキューバンキャッツ)は、日本のコミックバンドである。ハナ・ハジメとキューバンキャッツとも表記されていた[1]。当時誕生したばかりの渡辺プロダクションに所属。ハナ肇により結成され、ハナ肇とクレージーキャッツの前身となった。
概要

1954年当時、浜口庫之助は「浜口庫之助とアフロキューバノ」など子飼いのバンドを4つほど率いており、そのバンドの一つ(「浜口庫之助とアフロキューバノ」のジュニア[2])でドラマーとして活動していたのがハナ肇だった[3]。同年12月末、浜口から「今月いっぱいでこのバンドは解散する」と一方的に通告されて反撥したハナは、1955年4月1日、浜口に対する仕返しの意味でバンド名をアフロキューバノから盗用し、自らのバンドを結成した[3]。ハナ肇とキューバン・キャッツというバンド名は、新宿のお好み焼き屋「どんどん亭」でハナ自らが決めた[4][5]。そのとき同席していたのは渡辺プロダクションの渡辺晋・渡辺美佐夫妻であり、晋は「同じバンドでも、これまでにないものをやってみよう。お前(ハナのこと)、おかしいんだからモダンジャズなんかやるな。ドラムだってそんなにうまくないんだから、お前のキャラクターを生かして変わったことをやったらどうだい、といってできたのがクレージーの前身、キューバン・キャッツ」[6]と語っている。このときハナの念頭にあったのは脱線トリオのメンバー構成であった[4]

渡辺プロダクション社長の渡辺晋谷啓植木等(いずれも当時フランキー堺とシティ・スリッカーズに在籍していた)に声をかけたのは、キューバン・キャッツのレベルアップを図ってのことであったが、シティ・スリッカーズの所属プロダクションの社長から「お前ら、ここを辞めてハナのところへ行くのか。もしそんなことしたら、どこに行っても飯が食えないようにしてやる」と脅されて震え上がった植木はキューバン・キャッツへの移籍を躊躇した[7][注釈 1]。一方、谷啓は「あんな奴の言う通りには、もうならない。俺は、明日から来ない」と宣言し、1956年2月1日[9]、シティ・スリッカーズから脱退してキューバン・キャッツに加わった[10]。結局、植木の移籍が実現したのは1957年3月1日[9]のことであったが、その頃は既にキューバン・キャッツという名前ではなくなっており、「僕が入った時は、もうクレージーだったからね」と植木は語っている[10]

クレージーキャッツと改名した時期について小林信彦は「1957年3月から6月の間」としているが、渡辺プロダクションの資料では「1955年」となっており、正確な時期についてはハナ肇も把握していなかった[10]。山下勝利は「こうして昭和30年4月1日に『ハナ肇とキューバン・キャッツ』はスタートしたのである。クレージー・キャッツと改称するのは、3ヵ月ほど後のことだ」[11]と記しており、軍司貞則もクレージーキャッツへの改名を1955年7月としているが[12]NHKアーカイブスの番組表検索では、1956年2月7日NHK『ボンゴのひびき』に「ハナ・ハジメとキューバンキャッツ」名義で出演していたことが確認できる[1]

国家公務員の初任給が1万5483円の時代、渡辺プロダクションはキューバン・キャッツのメンバーに月給30万円を保証していた[13]
結成時のメンバー

ハナ肇(ドラム)

犬塚弘(ベース)

萩原哲晶(クラリネット)

橋本光雄(ピアノ)

稲垣次郎(テナーサックス) - 稲垣は谷啓や植木等の参加と入れ違うように脱退し[14]柴田昌彦に交替したとの資料もあるが[15]、『新撰 芸能人物事典 明治?平成』では初代テナーサックス奏者を柴田としている他、山下勝利も発足時のメンバーの一人に柴田を挙げており、稲垣を含めていない[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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