ハドリアヌス4世_(ローマ教皇)
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ハドリアヌス4世
ローマ教皇

教皇就任1154年12月4日
教皇離任1159年9月1日
先代アナスタシウス4世
次代アレクサンデル3世
個人情報
出生1100年
イングランド王国ハートフォードシャー
死去1159年9月1日[1]
アナーニ
その他のハドリアヌス (曖昧さ回避)
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ハドリアヌス4世(ラテン語: Hadrianus IV, 1100年頃 - 1159年9月1日[1])は、第169代のローマ教皇(在位:1154年 - 1159年)。教皇となった唯一のイングランド出身者である[2][3]。本名はニコラス・ブレイクスピア(Nicholas Breakspear または Breakspeare)。イングランド東部のアボッツ・ラングレー(現在のハートフォードシャー)教区内のブレイクスピア農場に生まれ[4][5][6][注釈 1]セント・オールバンズの修道院学校で学んだ。
生涯
生い立ち、教皇就任までかつてのセント・オールバンズ修道院の門

父のロバートは、ニコラスの生後、イングランド東部のセント・オールバンズの修道士となったが[7]、ニコラス自身は修道院への入院を許されることはなかった。修道院長によって「学校での習得状況からふさわしいと思われる段階に達するまで入院を保留」(修道院伝)されたためである。ニコラスはフランスパリへ渡り、その後南仏アルルに近いサン・ルフ修道院の律修司祭となった。続いて修道院次長となり、まもなく満場一致で修道院長に選ばれた[3]。この時期は、通常1137年とみなされているが[3]、同修道院の記録は1145年頃の可能性も示唆している[注釈 2]

サン・ルフの修道院長となったニコラスは強固な改革姿勢を示し、これに対する苦情もまたローマへ伝えられたが、それはかえって当時の教皇エウゲニウス3世(在位:1145年 - 1153年)の注目を引き、教皇により好意的に評価されたニコラスは1149年12月にイタリア中部のアルバーノ司教枢機卿に任命されることとなった[8]

さらにニコラスは、1152年から1154年スカンジナビアへ教皇特使として赴任し、新しく設置されたニーダロス(Nidaros、現在のノルウェートロンハイム)の大司教区を任されてハーマル管区(ノルウェー南東部)を設定した。1153年にオスロ大聖堂学校(Schola Osloensis)を設立したのもニコラスであると伝えられている。また、ガムラ・ウプサラ(スウェーデン中部)の管区としての承認にも寄与している(スウェーデンの首都大司教管区は1164年に ウプサラ へ変更となった)[注釈 3]。この決定によって領地が削減されたデンマークルンド大司教(ルンドは現在はスウェーデン南部に所在)に対しては、代償として教皇特使と永年教皇代理の地位を与え、肩書きをデンマークおよびスウェーデンの首座主教に引き上げることとした。
教皇就任

帰任後、ニコラスはその業績を教皇アナスタシウス4世(在位:1153年 - 1154年)に大いに讃えられた。アナスタシウス4世の死後、1154年12月3日にニコラスは満場一致で次期教皇に指名され、ローマ教皇ハドリアヌス4世として即位した[9]

ハドリアヌス4世が教皇に就任した当時、ローマ教会は深刻な内憂外患を抱えた状態であった。1152年、ホーエンシュタウフェン朝初代のローマ王コンラート3世は、その死に際して実子ではなく、英明で知られ、のちに中世騎士の理想像ともされたフリードリヒ1世(バルバロッサ、赤髭王)を神聖ローマ帝国の皇帝後継者として指名した[10][11]。皇帝となったフリードリヒ1世は1154年以降アルプス山脈を越えてイタリア遠征を行い、教皇に戴冠を求める一方で教皇領内への勢力拡大をもくろんでいた[10][注釈 4]。フリードリヒ1世は、神聖ローマ皇帝の諸権利をローマ法によって基礎づけ、諸侯に対する皇帝権の確立を目指すとともに、「ローマ皇帝」の称号にふさわしく、自身のイタリアでの皇帝権の回復に強い意志を持って、「ローマ皇帝」の宗主権を認めない北イタリアの諸都市を懲罰しようとしたのである[10][注釈 5]

南からは、ノルマン朝グリエルモ1世が教皇に対しシチリア王権の承認を求めると同時にやはり教皇領を脅かし、さらに、この情勢を好機とみた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝マヌエル1世コムネノスローマ帝国の衣鉢を継ぐ正統としてイタリア支配の野望を抱きつつ、その一方で教皇とフリードリヒ1世の両方にシチリア王国に対する共同戦線の展開を持ちかけるという複雑な状況にあった。その上、足下のイタリアでも反教皇派の指導者、「アルノルド・ダ・ブレシア」という学僧によって率いられた反ローマ運動が起こっていた[12][注釈 6]

ハドリアヌス4世はまず、フリードリヒ1世と手を組んで共和主義者アルノルド・ダ・ブレシアと対決し、その排除にかかった[13]。ローマの町は混乱に陥っており、枢機卿が白昼に襲撃されるという事件が起きていた。ハドリアヌス4世は前例のないローマに対する聖務禁止(インターディクト)処分を1155年の聖枝祭直前に決定する。これを受けてローマの元老院はアルノルドを追放した。
シチリアと東ローマ帝国


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