この項目では、古代ローマ皇帝について説明しています。その他の用法については「ハドリアヌス (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ハドリアヌス
Hadrianus
ローマ皇帝
ハドリアヌス胸像
在位117年8月11日 - 138年7月10日
全名プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス
Publius Aelius Trajanus Hadrianus
出生76年1月24日
ローマ
(またヒスパニア・バエティカ属州、イタリカ
プブリウス・アエリウス・トラヤヌス・ハドリアヌス(古典ラテン語:Publius Aelius Trajanus Hadrianus プーブリウス・アエリウス・トライヤーヌス・ハドリアーヌス、紀元76年1月24日 - 138年7月10日[1])は、第14代ローマ元首(皇帝)(在位:117年 - 138年)。ネルウァ=アントニヌス朝の第3代目元首。前任者であるトラヤヌスの拡大路線を放棄し、内政と国境管理に力を入れて18世紀のイギリスの歴史家エドワード・ギボンからいわゆる五賢帝の一人として称賛されたが、治世における混乱やその強権から同時代人には暴君して恐れられてもいた。 18歳から公務での活動を開始したトラヤヌスは中欧やバルカン半島で軍務に就き、97年11月にはネルウァに事実上の後継者に指名されたトラヤヌスの下に自身が所属する軍団の使節として赴いて祝辞を述べている。99年には正式に元首の地位に就いたトラヤヌスと共にローマへと帰還し、この頃にトラヤヌスの妻であったプロティナ(英語版)
生涯
誕生から青年期まではヒスパニア(スペイン)にあった属州バエティカの町イタリカ出身であり、かつてこの町がイタリアの都市ハドリアからの入植者によって建設された事が「ハドリアヌス」という名の由来である。母のドミティア・パウリア(英語版)はフェニキア人にルーツを持つとも考えられるカディス出身のヒスパニア人であった。ハドリアヌスが10歳の時に父と死別し、以降トラヤヌスとヒスパニア出身の同郷者でエクイテス(騎士)であったプブリウス・アシリウス・アッティアヌス(英語版)の後見を受けながら成長し、その過程でギリシア文化に大きな関心を示した事から周囲に「グラエクルス(小さなギリシア人)」と呼ばれた[2]。
トラヤヌスの下で
その後101年にクァエストル(財務官)となり、正式に元老院議員としての資格を得るとトラヤヌスのスピーチライターを務め、ダキア戦争への従軍を経て下部パンノニア属州総督、補充執政官(正規執政官が欠けた際の補充要因)、ギリシアのアルコン職(執政官)といった役職を歴任。更にトラヤヌスの幕僚としてパルティア遠征に従軍した後117年に属州シリア総督に就任した。
トラヤヌスの下で順調に昇進を重ねていったハドリアヌスだが、必ずしも特筆すべき点があったとは言えず、トラヤヌスの後継者と断言できる程の経歴ではなかったともされる[3][4]。 117年8月、キリキアの小村セリヌスでトラヤヌスが病没すると、遺言でハドリアヌスを養子とし、自身の後継者としたという報せが元老院とアンティオキアでシリア総督を務めていたハドリアヌスの下に届き、ハドリアヌスは配下の軍団の支持の下で元首への就任を宣言した。 しかしトラヤヌスの遺言の信憑性は古代より疑問視されており、歴史家カッシウス・ディオは父親からの伝聞を根拠として、遺言が親衛隊長官となっていたアッティアヌスと、ハドリアヌスに好意的なプロティナによる捏造だったとしている。巷ではトラヤヌスは、ダキア戦争やパルティア遠征で功績のあったルシウス・クィエトゥス(英語版)
後継者指名の謎
トラヤヌスが生前にハドリアヌスを後継者に決めていたという明確な証拠はなく、遺言が本物であったのかについては、後世に考古学調査等を踏まえた上での活発な議論が交わされたが真相が解明されたとは言い難い。当時からハドリアヌスの元首就任の正当性には疑問が呈されていたと言える。トラヤヌスから十分な権力移譲の準備がなされなかった事は、ハドリアヌスに著しく不安定な立場での地位の継承を余儀なくさせたのだった[6][4]。 ハドリアヌスが元首に就任して間もなく、要職であるコンスル(執政官)経験者である以下の有力な4名の元老院議員が処刑される事件が発生した。
4元老院議員処刑事件
ガイウス・アウィディウス・ニグリヌス(英語版)
アウルス・コルネリウス・パルマ(英語版):アラビア遠征で活躍した2度の執政官経験者。
ルキウス・プブリウス・ケルスス(英語版):2度の執政官経験者。
ルシウス・クィエトゥス(英語版):パルティア遠征で活躍した117年の補充執政官(執政官に欠員が生じた場合の補欠)。
4名の処刑はハドリアヌスに先んじローマへ帰還したアッティアヌスの手で行われたが、ハドリアヌス自身の命令によるものだったとの説も存在し、罪状はハドリアヌス暗殺の陰謀一だったとされる。しかし、カッシウス・ディオはそれを口実にハドリアヌスがライバルになりうる人物を排除した可能性も示唆している[7]。
トラヤヌスによる拡大路線を停止し、東方から撤退するというハドリアヌスの方針への反発が原因ともされるが、4名のうちパルティアへの遠征に関わっていたのはクィエトゥスのみであり、ケルススとニグリヌスは外征での目立った功績が無い事から推測の域を出ず、また、ニグリヌスがハドリアヌスの親友であったとされる事から、就任間もない政治基盤の脆弱さから来る元老院内での内部抗争の結果だった可能性も指摘されている。
いずれにせよこの処刑は元老院に強い衝撃を与え、118年7月にローマへと帰還したハドリアヌスは弁明に追われ、今後元老院議員を処刑しないとの誓いを立てる一方、民衆への賜金による支持の確立にも努める事で一応の安定を見たが、ハドリアヌスと元老院との間に大きな禍根を残す事となった[8]。
属州の整備、再編