ハッティズバーグ市
City of Hattiesburg
愛称 : 中軸の都市(The Hub City)
位置
フォレスト郡内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度18分57秒 西経89度18分31秒 / 北緯31.31583度 西経89.30861度 / 31.31583; -89.30861
ハッティズバーグ(英: Hattiesburg)は、アメリカ合衆国ミシシッピ州南部の都市。フォレスト郡の郡庁所在地である。人口は4万8730人(2020年)。2005年のハリケーン・カトリーナの影響で人口は一時減少したが、回復しつつある[2]。近年、ラマー郡東部を併合することで拡大してきた。フォレスト郡、ラマー郡およびペリー郡に跨るハッティズバーグ都市圏の主要都市である。
ハッティズバーグは1882年に製材業者で土木技師でもあったウィリアム・H・ハーディによって設立され、町の名前はハーディの妻ハッティに因んで名付けられた。2年後には人口400人となり、自治体になった。ハッティズバーグの人口は当初製材と鉄道産業の中心として拡大し、そのことから「中軸の都市」という渾名も貰った。現在は経済も多様化し、ミシシッピ州南部の中心にあって周辺も強力なために、地域に新しい人口を呼び込んでいる。
ハッティズバーグには南ミシシッピ大学(当初はミシシッピ師範学校と呼ばれた)およびウィリアム・ケーリー大学がある。市の南部にはミシシッピ川より東では最大の州兵訓練基地であるキャンプ・シェルビーがある。 ハッティズバーグはリーフ川とブーイ川が分岐する所にあり、1862年に土木技師のウィリアム・H・ハーディ大尉によって設立された。この地域の初期開拓者は、ジョージア州や両カロライナ州に移民してきたスコットランド人、アイルランド人およびイングランド人の子孫であり、松材が豊富な未開の大地に惹き付けられてきていた。 ハッティズバーグは1884年に人口400人で自治体になった。当初はツインフォークス、後にはゴードンビルと呼ばれていた。最後はハーディが妻のハッティに因んでハッティズバーグと名付けた。 1884年にはまた、サザン鉄道と呼ばれた鉄道がメリディアンからハッティズバーグを通ってニューオーリンズまで建設された。現在はイリノイ・セントラル・システムの一部になっているガルフ・アンド・シップアイランド鉄道がガルフポートからハッティズバーグを通ってジャクソンまで開通し、1987年には木材ブームが起こった。鉄道は開通までに20年以上を要したが、期待以上の効果をもたらした。水深の深い港湾ができ、沿線人口は2倍以上になり、ガルフポートの町が建設され、ハッティズバーグが鉄道の中心になった。 1912年、地元の新聞がハッティズバーグを「中軸の都市」と呼んだことから、これが渾名になった。これはハッティズバーグが何本もの重要な鉄道線が通り中継していることから来ていた。その後アメリカ国道49号線、同98号線および同11号線、さらに後には州間高速道路59号線が通ったので、主要道路の中継点にもなった。ハッティズバーグは州都ジャクソンから100マイル (160 km) 足らず南にあり、州のメキシコ湾岸、ニューオーリンズおよびアラバマ州モービルからも似たような距離にあって、その中央に位置している[3]。 ハッティズバーグ周辺の地域は冷戦時の核開発競争に巻き込まれた。1960年代、2つの核爆弾がハッティズバーグの約28マイル (45 km) 南西、ランバートン近くの岩塩ドームで爆発された。環境保護庁が行ったその後の調査でも、人体に影響するような放射能汚染のレベルを公表していない。 20世紀を通じてハッティズバーグはキャンプ・シェルビー(現在は軍人動員センター)、2つの総合病院、および南ミシシッピ大学とウィリアム・ケーリー大学という2つの大学の設立から恩恵を受けてきた。ハッティズバーグ、フォレスト郡およびラマー郡を含む都市圏は、1994年に都市圏人口が10万人を超えたときに、統計上都市圏に指定された[4]。 ハッティズバーグは海岸から約75マイル (120 km) 内陸にあるが、2005年のハリケーン・カトリーナの時は大きな被害を受けた。地域内1万戸ほどの建造物が何らかの被害を受けた。市内道路の約80%は倒木で塞がれ、電力は最大14日間止まった。ハッティズバーグとその周辺で死者24人を出した。ハリケーン・カトリーナの被害が甚大だったルイジアナ州やミシシッピ州の海岸から一時的待避者や住み替えを求めてきた人々が市内に多く入り混乱を招いた。 ハッティズバーグ警察署は連邦政府の認定法執行機関としてミシシッピ州では初めて、かつこの10年間では唯一認定された署である。独自の訓練学校を持っており、伝統的に途中退学者が50%以上も出る国内でも最も難しい学校の一つになっている。 カンパー公園にあるハッティズバーグ動物園は長年観光客に親しまれるものになっている。 ハッティズバーグとパーマーズクロッシングというアフリカ系アメリカ人の未編入地域は1960年代の公民権運動で重要な役割を果たした。1959年、朝鮮戦争に従軍した黒人兵クライド・ケナードが、当時白人しか受け入れていなかったミシシッピ・サザン・カレッジ(今日の南ミシシッピ大学)に入学願書を提出した。かれは人種を理由に入学を拒否され、それでも入学に固執すると、ミシシッピ州主権委員会は彼が犯罪を企てているとでっちあげ、ミシシッピ刑務所で7年間の懲役を言い渡した。全米黒人地位向上協会の指導者、メドガー・エバーズ、バーノン・ダーマーなどフォレスト郡の公民権運動家達がこの判決を覆そうと戦った[5]。ハッティズバーグ中心街の郵便局 フォレスト郡選挙人登録官のセロン・リンドが黒人の有権者登録を妨害していた。この頃人口の30%は黒人だったが、そのうち投票権を持っているのは1%未満であり、一方白人は100%近くが登録されていた。1961年、アメリカ合衆国司法省がリンドを告発し、リンドは体系的にアフリカ系アメリカ人の選挙権を妨害していた廉で1957年公民権法の下で有罪とされた最初の南部選挙人登録官となった。 1962年、学生非暴力協同委員会が連邦組織協議会の援護でハッティズバーグでは最初の選挙権登録計画を始めた。1964年までにデルタ・ミニストリーという組織が市内で活動していた。全米黒人地位向上協会や地元の公民権運動指導者との協業により、フォレスト郡有権者同盟を結成した。1963年の選挙に関連して公民権運動指導者達は、州全体に拡がる選挙権差別とミシシッピ州の黒人が完全な市民権を求める強い願望を持っていることの双方を示す模擬選挙、「自由投票」を州全体で組織した。これには肉体的にも経済的にも大きな危険性があったが、フォレスト郡黒人のほぼ半分が参加し、州内でも投票率が最高になった[6]。 1964年1月21日、この日は学生示威運動者や50人の北部神職者に支えられて有権者登録運動の大きな節目であるハッティズバーグの「自由の日」だった。レコンストラクション時代以来初めて、選挙権のための人種に跨る抗議が裁判所にピケを張っても逮捕されることなく行われた。およそ100人のアフリカ系アメリカ人が有権者登録しようとしたが、裁判所に入ることを許された者は少数であり、さらに少数が有権者名簿に登録された[7]。その後何ヶ月間も毎日、裁判所での抗議が続けられ、「果てしないピケ」と呼ばれるようになった[8]。 1964年の自由の夏の間、ハッティズバーグとパーマーズクロッシングのプロジェクトはミシシッピ州連邦下院第5選挙区における公民権運動全ての本部となり、90人以上の志願者や3,000人の地元参加者がいて、州内でも最も活動的な所になった。フォレスト郡黒人数百人が裁判所で有権者登録をしようとしたが、大半は妨害された。ハッティズバーグとパーマーズクロッシングの7つ有る自由学校の1つに650人以上の子供と大人が出席し、3つの自由図書館は寄付図書で起ち上げられ、地域センターが設立された。多くの白人は黒人による公民権運動に反対し、夏の志願者や地元アフリカ系アメリカ人は逮捕、殴打、馘首および追い出しに耐えた[9]。
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公民権運動