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ハザール・カガン国の版図(650年頃が赤、750年頃が橙、850年頃が薄い橙)
公用語ハザール語
首都イティル
カガン
730年 - 740年ブラン・カガン
ハザール(突厥文字:、英: Khazar、ヘブライ語:???????)は、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。
支配者層はテュルク系民族と推測されており、支配者層が9世紀頃にユダヤ教に改宗したことは有名である[1]。交易活動を通じて繁栄した。
アラビア語、ペルシア語資料では ??? Khazar と書かれている。日本語ではハザル、ハザリア、ホザールあるいはカザールと表記されることもある。 ハザールは謎の多い遊牧民であり、起源はもとより系統もはっきりしないが、おそらくテュルク系と考えられている[2]。 中国の歴史書である『旧唐書』,『新唐書』に出てくる波斯(ペルシア)国(サーサーン朝)に北隣する「突厥可薩部」がこの「ハザール」のことと考えられている。 8世紀 - 9世紀の年代記作者テオファネスによれば、ハザールの故郷はベルシリア(アルメニア史料のバルシリ)であるという[3]。 10世紀のペルシア語の地理書『世界境域誌』(?ud?d al-'?lam)に書かれているハザール人たちの諸都市の項目(首都イティル(アーティル ??? ?til)の条)によれば、ハザールのハーカーン(後述)は「アンサーの子孫に属す( ?? ??????? ???? ??? az farzand?n-i Ans?' ast)」と書かれており、この「アンサー」とは突厥王家である阿史那氏の訛音ではないかとも言われている。 ハザールは6世紀の東ローマ史料において、サビル ハザールはおそらく6世紀末にカスピ海沿岸およびカフカスからアゾフ海のステップに進出したが、その時期はまだ西突厥の勢力が強大で、その宗主権のもとに置かれていた。626年、東ローマ帝国のヘラクレイオス1世は帝国の北東国境を守るために「東のテュルク」と同盟を結んだ。この「東のテュルク」の主力をなしていたのがハザールであり、東ローマ帝国は彼らと共にペルシア(サーサーン朝)支配下にあったカフカスを攻め(ビザンチン・サーサーン戦争 7世紀の中ごろ、西突厥の衰退と共にハザールはその後継国家ハザール・カガン国を形成し、独立を果たす。一方、南ロシアのステップでは、オノグル・ブルガールの部族連合「古き大ブルガリア」が成立した(635年)。アラブ・ハザール戦争(642年 - 799年)が始まる。ハザールが西進すると古き大ブルガリアは崩壊し(653年)、一部はハザールにとりこまれ(黒ブルガール)、残りは各地に散らばってヴォルガ・ブルガール,ドナウ・ブルガールを形成した[3]。 以前、ハザールはカフカスをめぐってサーサーン朝ペルシアと対立していたが、サーサーン朝が新興のイスラーム共同体(ウンマ)によって滅ぼされると(651年)、代わってイスラーム共同体とカフカスをめぐって争うようになった。イスラーム共同体は654年に南カフカスのアルメニア、グルジア、アルバニアを占領し、カフカス山脈を越えてハザールの領有する北カフカスに侵入、カスピ海沿岸の要塞デルベントを陥落させ、ハザールの中心都市ベレンジェルに迫った。ハザールはベレンジェルでイスラーム軍を追い返したが、しばらく一進一退の攻防が続いた。イスラーム共同体で内紛が起こったため、一時はその侵攻が止んだが、661年にウマイヤ朝が成立すると、再びハザールに攻撃をかけてきた。735年、ウマイヤ朝のカリフであるヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクは従兄弟のマルワーン・イブン・ムハンマド(のちのマルワーン2世)を派遣し、麾下のウマイヤ朝軍1万5千が逆にヴォルガ河畔まで進撃した。これに窮したカガンは司令官マルワーンに和睦を申し入れ、イスラーム改宗を約束した。この遠征を受けてハザールはウマイヤ朝カリフの宗主権を一時的に認めさせられるが、属国にはならなかった[4]。 一方、東ローマ帝国とは共通の敵がペルシア(サーサーン朝)とアラブ(イスラーム)と一緒であったため、利害が一致していたが、クリミア半島の領有に関しては争いが生じた。西進を続けるハザールはまずボスポロス 比較的友好な関係にあったハザールと東ローマ帝国は婚戚関係も結んでいる。ユスティニアノス2世は軍人のレオンティオスによって帝位を奪われ、クリミア半島のヘルソンに逃れ、ハザール・カガン国に亡命した。その際、カガンの姉妹と結婚し、ユスティニアヌス1世の妃にちなんでテオドラと改名させた。また、イコノクラスム最盛期の皇帝コンスタンティノス5世の妻もビハール・カガンの娘イレーネーであり、その子レオーン4世は「ハザロス(ハザール人)」と仇名された。その他、帝国で活躍した官吏や知識人のなかにもハザール出身者が少なくなかった[6]。
歴史
起源
サビル
西突厥の支配下
ハザール・カガン国
ハザールとイスラーム詳細は「アラブ・ハザール戦争」を参照
ハザールと東ローマ
ハザールとユダヤサルケル遺跡は830年代にハザールが建てたかつての都市。写真は1930年代のもので、現在はヴォルガ・ドン運河運用のため1952年に造られたチムリャンスク湖
ハザールのユダヤ教受容は非常に有名であるが、改宗に関する史料は少なく、その時期と実態は謎に包まれており、さまざまな論争を呼んでいる。西欧ではアクイタニア(アキテーヌ)のドルトマルが864年に書いたマタイ伝の注釈の中で、ハザールの改宗にふれているので、864年以前であることは確実であろう。アラブのマスウーディーはハザールの王(ベク)がハールーン・アッ=ラシード(在位:786年 - 809年)の時代に、ユダヤ教を受け入れ、ビザンツ帝国やムスリム諸国から迫害を受けて逃れてきたユダヤ教徒がハザール国に集まったと記している。10世紀のコルドバのユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトがハザールのヨシフ・カガンに宛てた手紙、いわゆる『ハザール書簡』において、「ブラン・カガンが夢の中で天使に会ってユダヤ教に改宗したが、民衆が新しい宗教を信じなかったので、ベクが尽力してユダヤ教の普及をはかった」という記述がある。ブラン・カガンの時代だとすると、730年 - 740年頃ということになる。以上のように、改宗の時期や理由は断定することはできないが、9世紀初頭と考えるのが妥当なところであろう[7]。
735年にマルワーン率いるウマイヤ朝軍に敗れたハザールは一時的にイスラム教に改宗したものの、アッバース革命に前後するイスラーム帝国内部の混乱を機に、799年にオバデア・カガンは再びユダヤ教を公的に受容した。こうして9世紀までに、ハザールの支配者層はユダヤ教を受容したが、住民はイスラム教徒が多かったと考えられている。 ハザール・カガン国は10世紀になると衰退し始め、貢納国 当初はカガン(アラビア語:??????? al-Kh?q?n ハーカーン、漢語:可汗)が権力の頂点にあったが、次第にその地位は名目的なものになった。そのため、宗教的権威を有するカガンと、事実上の支配をおこなうベクやシャドが並び立つ統治体制へと移行した(二重王権制)[9]。10世紀の東ローマ皇帝コンスタンティノス7世は『帝国統治論
ハザールの滅亡
政治