ハサナル・ボルキア
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ハサナル・ボルキア
Hassanal Bolkiah
ブルネイ・ダルサラーム国 スルターン国王
ハサナル・ボルキア国王(2023年、内閣総理大臣官邸にて)
在位1967年10月4日 - 在位中
戴冠式1968年8月1日

全名Hassanal Bolkiah Mu'izzadin Waddaulah
ハサナル・ボルキア・ムイザディン・ワッダラー
出生 (1946-07-15) 1946年7月15日(77歳)
ブルネイブルネイタウン
配偶者ペンギラン・アナク・サレハ
 ペンギラン・イステリ・マリアム
 アズリナ・マズハル・ハキム
子女一覧参照

ラシーダ
ムタ=ワキラ
アルムタデー・ビラ
マジーダ
ハフィザ
アブドゥル・アジム
アブドゥル・マリク
アゼマ
ファジラ
アブドゥル・マティーン
アブドゥル・ワキール
アミーラ

家名ボルキア家
父親オマール・アリー・サイフディーン3世
母親ペンギラン・アナク・ダミト
宗教イスラム教スンナ派
サイン
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ハジ・ハサナル・ボルキア・ムイザディン・ワッダラー(マレー語: Haji Hassanal Bolkiah Mu'izzaddin Waddaulah、1946年7月15日 - )は、ブルネイ国王スルターン)。第29代に当たる。日本では「ハサナル・ボルキア国王」の呼称が主に用いられる[1]首相国防相蔵相外相を兼任し、ブルネイの国体下において、事実上の絶対君主と言える強大な権限を有している[2]

ブルネイで発行されている複数のブルネイ・ドル紙幣に肖像が使用されている。また、世界各国の君主の中でも有数の資産家としても知られ、ギネス・ワールド・レコーズに世界一の富豪として記録されていたこともある。

スルターン在位期間は56年間にも及び現在の世界の君主の中では最長である。
略歴

1946年 7月15日、当時のイギリス自治領ブルネイで王弟(のち国王)オマール・アリ・サイフディン3世の長男として誕生。

1961年 王太子となる。

1964年 オマール・アリ・サイフディン・カレッジ入学。

1965年 サレハ王妃と成婚。

1966年 イギリスのサンドハースト王立陸軍士官学校へ留学。翌年までをイギリスで過ごす。

1967年 父王の譲位に伴い帰国。10月5日、第29代スルタンに即位。

1968年 8月1日、ラパウにて戴冠式が挙行され[3]、正式に国王となる。

1970年 大阪万博視察のため初訪日。以後数回の訪日履歴がある。

1974年 2月17日、サレハ王妃との間に後の王太子アルムタデー・ビラ誕生。

1981年 マリアム第2王妃と成婚(のち2003年に離婚)。

1984年 ブルネイ独立。同時に首相・蔵相・内相を兼任する。

1985年4月23日 ブルネイ・ダルサラーム大学設立構想を発表、同年10月28日開学、総長に就任[4]

1986年 首相・国防相を兼任。

1997年 蔵相を追加で兼任。

2005年 アズリナ・マズハル第2王妃と成婚(のち2010年に離婚)。

2012年 インドネシア大統領選に絡んだ振り込め詐欺の被害に遭う。被害額は200億インドネシア・ルピア[5]

2015年 外相を追加で兼任。

政策ブルネイの政治も参照軍を視察中のハサナル・ボルキア国王

ブルネイの政体は形式上立憲君主制を採ってはいるが、立法においては法律の最終制定権を国王に置き、司法においても裁判官の任命権を国王が有する[6]など、事実上は絶対君主制と言ってよい。ハサナルは独立以来この国王の地位にあり、前述の通り首相国防相蔵相をも兼任し絶大な権限を振るっている。

石油天然ガスの豊富な産出に基づく安定した経済力を背景に、インフラの整備、高福祉政策を実現し、更に公務員の大量雇用によって国民の経済水準を引き上げてきた[6][7]。また公務以外においても、毎年ラマダーン明けの大祭の際には王宮を開放し、国内外からの数万人に及ぶ参列者一人一人と握手を交わす[8]など、国民との融和に努めている。また、訪問者には、手土産に菓子類を渡し、子供にはお小遣いを渡すという。

高い生活水準を享受する国民からの信頼は全般に篤く、毎年7月15日の国王の誕生日には市中に装飾がなされ、国を挙げた祝賀会が催される[9]。現在のところ、国民の参政権は皆無でありながら大規模な民主化運動や反体制運動も発生していない[6]

ただし近年は将来の資源枯渇に備えた経済の多角化の必要性もあり、徐々に国政を変化させつつある。ハサナルは2004年、独立以来停止していた立法評議会(国会)を再開すると共に、憲法改正によって従来の任命議員に公選議員を加えるものとした(しかし2011年現在も選挙が実施されるには至っていない[10])。また2005年には大規模な内閣改造で閣僚の刷新を行い、エネルギー大臣職を新設した[2][10]
家族

3人の王妃との間に5男7女、計12人の子女がある。このうち、サレハ第一王妃との間に生まれた長男アルムタデー・ビラが1998年に王太子に立てられ、2005年からは上級大臣として筆頭閣僚の地位にある[2]。また、実弟のモハメッド・ボルキアも1984年の独立以来外相(2005年の内閣改造以降は外務貿易相)として政務を補佐している[11]

サレハ第1王妃(1946年10月7日 - 、1965年成婚)

ラシーダ王女(1969年7月26日 - )


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