ハコボ・アルベンス・グスマン
Jacobo Arbenz Guzman
グアテマラ
大統領
任期1951年5月15日 – 1954年6月27日
出生1913年9月14日
ケツァルテナンゴ
死去1971年1月27日
メキシコ
政党革命行動党
配偶者マリア・クリスティーナ・ビジャノーバ
ハコボ・アルベンス・グスマン(Jacobo Arbenz Guzman、1913年9月14日 - 1971年1月27日)は、グアテマラの軍人(大佐)、政治家。国防大臣(1944年 - 1951年)及び大統領(1951年 - 1954年)を務めた。
大統領在任中の1954年、アメリカ合衆国及び中央情報局(CIA)が策したクーデター、「PBSUCCESS作戦」により失脚。カルロス・カスティージョ・アルマス大佐を首班とする軍事政権・独裁政権が成った。
クーデター発生後に亡命し、1971年メキシコにて客死。 1944年の革命(スペイン語版
概要
・グアテマラを属国から変換すること
・半植民地経済から経済的に自立した国へ
・封建経済が主流の後進国から、市場経済を備えた近代国家に変革すること
を柱とし、民主社会主義・高福祉路線、左派ポプリスモ的な政策を次々と打ち出し、フアン・ホセ・アレバロの政策方針を全面的に引き継いでグアテマラの抜本的な改革に乗り出した。とりわけ農地改革が加速し、1954年までに138,000世帯以上の農民が恩恵を受けた。また、バレエなどの娯楽産業を育成し、ロシア人教師のレオニード・カチョロウスキーによって指揮された。
しかし、ユナイテッド・フルーツとの亀裂や、アメリカによるネガティブキャンペーン(「グアテマラが共産主義化している」「グアテマラが社会主義国家になろうとしている」)といった経済的封鎖により、アルベンス政権は危機に瀕し、これが1954年のクーデターに繋がる。1971年1月27日に死去。 スイス系ドイツ人薬剤師の子として、ケツァルテナンゴに生まれた。家庭は比較的裕福かつ中流階級に属したため、幼年時代は何不自由無く過ごしたという[1]。だが父がモルヒネ中毒に陥り、家業を放棄するようになる。結局は破産し、裕福な友人の取り成しにより農村部への移住を余儀無くされた。 ハコボは元々経済学者か技術者を目指していたが、家庭の経済的事情により大学進学を断念した。軍隊に入る気は無かったものの、士官学校に入れば奨学金を得られることを聞き付けると、1932年同校に入学を果たした。2年後、父が自殺を図った[1]。 学校では極めて優秀な成績を収めており、士官候補生に与えられる最高の位である軍曹に就いた。軍曹の位は1924年からの20年間で6名しか与えられておらず、ジョン・コンシディン少佐ら学内のアメリカ人教官からの評価も絶大であった。1935年に卒業[1]。 卒業後は首都グアテマラシティのサンホセ基地、次いでサン・フアン・サカテペクエスにある小規模の駐屯地で下級士官を務めた。サンホセ時代は、政治犯を含む囚人に強制労働をさせる部隊を統率しなければならず、この時の経験によりトラウマを背負うこととなった[1]。 1937年、欠員が出ていた士官学校の教職に就いた。軍事問題や歴史、物理と教鞭を執った科目は広範囲にわたり、1943年には校長に昇格。学内での地位はナンバー3であり、同年代の士官としては最高位の1つとされていた[1]。 この間の1938年、後の妻となるエルサルバドルの地主の娘マリア・ビジャノーバと出会った。数ヶ月後に結婚。妻マリアがハコボに与えた影響は非常に大きく[1]、マルクス主義に触れたのも彼女を通してであった。ハコボは妻が入手した『共産党宣言』に心動かされ、マルクスやレーニンらの諸著作を読み漁り始めた。その後、1940年代末までには共産主義者のグループと定期的に交流した[2]。 アメリカ合衆国は1890年代にモンロー主義を掲げ、ラテンアメリカ諸国からヨーロッパの植民地勢力を放逐し、資源や労働力に対する自国の覇権を確立することとなる。 その中で、19世紀から20世紀にかけてグアテマラを支配した独裁者は、押し並べてアメリカ合衆国の経済的、政治的利益に適応する形で統治を行った。そのため、ハイチやニカラグア、キューバといった他のラテンアメリカ諸国とは異なり、アメリカ合衆国は軍事力を行使してまで、グアテマラでの支配権を維持することは皆無であった。 グアテマラでは軍部や警察が米軍や国務省と密に連携を取りつつ、アメリカ合衆国の既得権益を擁護。歴代政権はアメリカ合衆国の企業への免税を図ったり、公共施設の民営化や売却を行ったりした他、公共地を相当数手放している[3]。
前半生
軍人時代
大統領時代
歴史的背景モンロー主義の風刺画(1912年)。アメリカの象徴であるアンクル・サムが、西洋列強に西半球がモンロー宣言の範囲である事を示している