HOUSE ハウス
House[1]
監督大林宣彦
脚本桂千穂
原案大林千茱萸
『HOUSE ハウス』は、1977年7月30日に公開された日本の映画。ファンタジータッチのホラー・コメディ作品[出典 4]。カラー、スタンダード[1]。同時上映は『泥だらけの純情』[1]。
本作品の登場は一種の映画革命をもたらしたと評される[出典 5]。 CM監督として活動していた大林宣彦の初劇場用映画監督作品[出典 6]。元祖"Jホラー(ジャパニーズホラー)とも[出典 7]、元祖"アイドル×ホラーとも評される[出典 8][注釈 1]。大林宣彦はのちに尾道三部作『転校生』(1982年)、『時をかける少女』(1983年)、『さびしんぼう』(1985年)を制作して代表作とする[18]。 当時は東宝のようなメジャーな映画会社の映画を[注釈 2]、映画会社の社員でない監督が製作するというのは有り得ない時代[出典 9]。とかくテーマ主義に走り、映像への配慮があまりなされていなかった当時の日本映画の中で[出典 10]、ポップな色彩とおもちゃ箱をひっくり返したような華麗な映像世界は世の映画少年を熱狂させた[出典 11]。客層は15歳以下で[出典 12]、一部の劇場では三週目からはメイン作のモモトモ映画『泥だらけの純情』に代わり、メイン作に変更された[出典 13]。公開後に大林は「観客の8割に否定された」と話し、熱狂的な支持は若年層だけで、「こんなものを見せるとは何事だ」と劇場に怒鳴り込んだ客もいたといわれ、山根貞男は「CFテクニックのオンパレード。耐えられない、我慢ならない」と[39]、大半の批評家からも「女子(おんなこども)の映画」[40]、「CM風に映像を数珠つなぎにしたカタログ的映画」などと酷評された[出典 14]。CM調という批判に対して大林が「そもそもCMというものが大林調なのだ」と反論したという伝説もある[41]。東宝の本作品の前番組は、橋本プロがイニシアティブを執った『八甲田山』、後番組は東宝が角川ブームに便乗して作った『獄門島』であった[15]。本作品の成功は日本映画界に、助監督経験なし、自主映画出身、CMディレクター出身の映画監督の出現という新たな流れを生み出した[出典 15]。ぴあフィルムフェスティバル(PFF)は、『HOUSE』公開と同じ年の1977年暮れから始まったものだが、本作品公開以降、PFFの応募用紙に「最も尊敬する監督が大林宣彦。最も影響を受けた映画は『HOUSE』」と記入する者が圧倒的に増え、古い映画人は隔世の感に驚いたと言われる[27]。『転校生』を救った逸話でも知られる大森一樹監督は、本作品を観て、自身の監督デビュー作『オレンジロード急行』の撮影を阪本善尚に依頼し、阪本の手練れの温厚なるリードによって『オレンジロード急行』の現場は円滑に進んだといわれる[47]。犬童一心は「大林宣彦の轍を辿って私たちがいる。『HOUSE』や大林さんの初期の商業作品に対して、当時の映画評論家の多くは、自身の感性に合わないと恐れ酷評した。10代だった私は本当にダメな大人たちだと思い、心底がっかりした」などと述べている[48]。井口昇は小2の夏休みに『HOUSE』の存在を知ったが、大場久美子が生首にお尻を噛みつかれるシーンが怖すぎ、『HOUSE』恐怖症になって映画館に行けず、数年経ってテレビで観て「頭どころか細胞が全て入れ替わるほどの衝撃を受けた。未知の異世界として魅了されたことは勿論、池上季実子を始め、ヒロインたちの魅力をイキイキと引き出す撮り方に『女の子ってこんなに可愛く映画に写るものなんだ。今まで観た映画と全然違う!』と、その後の監督としての自身の意識に多大な影響を与えられた」などと話している[48]。三留まゆみは「8ミリ少年たちは『好きな女の子を好きなだけ撮っていいんだ!』と思ったんだよね。映画ってこんなに自由なんだって。何でもやっていいんだって、それが衝撃だったと思う」などと述べている[49]。早見慎司は「大林宣彦の監督作品はある人びとにとっては映画以上の、人生そのものとすら言えるものであり、私のそのひとりなのである。『ハウス』に出逢った衝撃など、話し出したらきりがない」などと述べている[50]。 なお、本作品において大林はプロデューサーも兼ねているが、純粋の東宝映画を資金分担しない監督にプロデューサー兼任させるのは異例中の異例であり、特にプロデューサーシステムの総本山である東宝ではなおさらであった。わずかに市川崑のみが(この後十年程度にわたって)この待遇を得ているが、監督歴30年の大功労者と同じ待遇を思い切って外部新人に与えた東宝の、いわば大きな権限をもって大林に存分に腕を振るうことへの期待が現れている。撮影監督や特撮スタッフを東宝社外から導入することができたのも、その結果のひとつである。 原案者の大林千茱萸
概要