ハインリヒ3世_(マイセン辺境伯)
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ハインリヒ3世
Heinrich III.
マイセン辺境伯
ザクセン宮中伯
ラウジッツ辺境伯
テューリンゲン方伯
コデックスマネッセに描かれたマイセン辺境伯ハインリヒ3世
在位マイセン辺境伯1221年 - 1288年
ザクセン宮中伯:1242年 - 1288年
ラウジッツ辺境伯テューリンゲン方伯1247年 - 1265年

出生1215年
神聖ローマ帝国
マイセン辺境伯領、マイセン
死去1288年2月15日
神聖ローマ帝国
マイセン辺境伯領、ドレスデン
配偶者コンスタンツェ・フォン・バーベンベルク
 アグネス・フォン・ベーメン
 エリーザベト・フォン・マルティッツ
子女アルブレヒト2世
ディートリヒ
フリードリヒ・クレム
ヘルマン
家名ヴェッティン家
父親マイセン辺境伯ディートリヒ
母親ユッタ・フォン・チューリンゲン
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ドレスデンの壁画「君主の行列」にあるハインリヒ3世

ハインリヒ3世(Heinrich III., 1215年頃 - 1288年2月15日)は、ヴェッティン家マイセン辺境伯(在位:1221年 - 1288年)。ラウジッツ辺境伯テューリンゲン方伯(在位:1247年 - 1265年)、ザクセン宮中伯も務めた。マイセン辺境伯ディートリヒとテューリンゲン方伯ヘルマン1世の娘ユッタの子。貴顕伯(der Erlauchte)の渾名で呼ばれる。

母の実家の遺領相続戦争に勝利し、領土を拡大した。
生涯
辺境伯時代

1221年に父が死亡した時はまだ6歳だった為、母方の叔父のルートヴィヒ4世(聖人伯)の後見下で、父の後を承けてマイセン辺境伯に就任した。叔父が1227年に亡くなった後は、ザクセン公アルブレヒト1世が後見役を継いだ。1230年には成人を宣言し、1234年オーストリア公レオポルト6世の娘コンスタンツェ(コンスタンツィア)と結婚した。

1237年プロイセンへの十字軍に参軍して初陣を経験し、その後すぐにブランデンブルク辺境伯ヨハン1世及びオットー3世と私闘状態となった。結局、ハインリヒ3世は故意に逃走し、下ラウジッツから東へ向かいベルリンを通り越して支配者の明確でない地域に進軍したのだった。1245年にはケペニック及びブランデンブルク郊外のテルトウでの長い戦いの後、撤退しなければならなかった。しかし彼は同じ頃、シードロ地方で勝利し、フュルステンベルク(現、ブランデンブルク州アイゼンヒュッテンシュタットの一市区)を創設した。

神聖ローマ皇帝ローマ教皇との戦いでは、ハインリヒ3世は皇帝派であることを明言していた。フリードリヒ2世は、これに感謝して、1242年にテューリンゲン方伯とザクセン宮中伯の地位を与え、1243年にはフリードリヒ2世の娘マルガレータとハインリヒ3世の長男アルブレヒトとの婚約が交わされた。
テューリンゲン継承戦争

1247年に叔父ハインリヒ・ラスペ(ルートヴィヒ4世の弟)が亡くなるとすぐに、テューリンゲンでの権利を主張する従妹ゾフィー・フォン・ブラバント(聖人伯ルートヴィヒの娘で、ロトリンゲンおよびブラバント公ハインリヒ2世夫人)やアンハルト=ツェルプスト侯ジークフリート1世を武力で退けた。1250年に一旦和睦するも、1254年に再戦、ゾフィーの息子のヘッセン方伯ハインリヒ1世や婿のブラウンシュヴァイクアルブレヒト1世の加勢もあって一時的に追い詰められるも反撃、1263年に長男アルブレヒトと次男ディートリヒの活躍で決戦に勝利、翌1264年に和睦、テューリンゲンはハインリヒ3世が相続、ヘッセンはハインリヒ1世が領有する事に取り決められた。


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