ハインリヒ・ゲオルク・スターマー
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1941年3月28日、ベルリン訪問中の松岡洋右外相(左)とスターマー(右)、ヴィルヘルム・カイテル(中央)、ハンス・ハインリヒ・ラマース(左端)

ハインリヒ・ゲオルク・スターマー(ドイツ語: Heinrich Georg Stahmer、1892年5月3日 - 1978年6月13日)は、ドイツ外交官。大戦中の駐日ドイツ大使を務めた。シュターマーとも表記。
経歴
外務省入省

1892年ドイツ帝国ハンブルクで生まれる。第一次世界大戦の従軍で1915年鉄十字勲章を受章。大戦終結後の1919年から1920年にかけて南アメリカに研修に行く。
「リッベントロップ事務所」

ナチ党の権力掌握後の1934年、軍縮問題全権代表ヨアヒム・フォン・リッベントロップ国家社会主義ドイツ労働者党内の非公式な外交機関として設立した「リッベントロップ事務所」に加わった。1936年日独防共協定締結に関わる。

1938年からは外相となったリッベントロップの側近として日独伊三国同盟の締結に関わった。1940年8月13日にはベルリンの日本大使館に正式な同盟締結に向けた交渉を通達。9月7日にリッベントロップの指揮の元で特派公使として来日し、オイゲン・オット駐日大使とともに親ドイツ派として知られた松岡洋右外相との交渉にあたった[1]
駐南京国民政府特命全権大使

日独伊三国同盟の締結交渉などにおける貢献が外務省の内外で認められ、1941年10月にリッベントロップより親日国の駐南京国民政府特命全権大使に栄転し、日本を離れた。
駐日特命全権大使

しかしその後1943年2月に、前月にゾルゲ事件の首謀者のリヒャルト・ゾルゲとの親しい関係を問われて解任されたオットに代わる駐日特命全権大使に就任する。以後、ドイツの敗戦まで駐日大使を務めたものの、大使館付警察武官兼SD代表のヨーゼフ・マイジンガーによる在日ドイツ人に対する思想取り締まりなどに理解を示したことなどから、在日ドイツ人のみならず旧大使館員からも反感を買った[2]

1944年夏以降に東京への連合国軍機の空襲の可能性が出てきたことにより、駐日ドイツ大使館は一部の通信班を残して河口湖畔の富士ビューホテルと[3]世田谷区成城に、スターマーは箱根宮ノ下の富士屋ホテルに分離疎開した[4]

1945年5月には、アドルフ・ヒトラーの自殺を受けてスターマーは駐日ドイツ大使館において、恐らく世界中にあるドイツの公的機関として唯一の追悼式を行ってヒトラーの死を悼んだ。しかし日本の首相や外相の参列はなく、外務省の儀典課長のみが式典に参列した[5]
大使地位喪失と逮捕


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