ハインツ・ティーセン
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リヒャルト・グスタフ・ハインツ・ティーセン(Richard Gustav Heinz Tiessen, 1887年4月10日 - 1971年11月29日)は、ドイツ作曲家

ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)出身。ベルリン大学とベルリン市立音楽院に入学し、作曲と音楽理論を学ぶ。1911年から1917年まで音楽評論を行い、1918年に民衆劇場(フォルクスビューネ)のカペルマイスター兼作曲家となり、1925年から1945年の間までベルリン音楽大学(現在のベルリン芸術大学)で音楽理論と作曲を教えた。またISCMのドイツ支部の創設者のひとりである。彼の音楽はナチス・ドイツ時代にはナチス政権によって「不適切」と分類された。第二次世界大戦後はほとんど作曲をしなくなったが、1955年にベルリン音楽大学の作曲・音楽理論学部の学部長となった。著名な教え子にエドゥアルト・エルトマンセルジュ・チェリビダッケがいる。

作品には2つの交響曲劇付随音楽管弦楽曲室内楽曲、ピアノ曲、オルガン曲、歌曲、合唱曲などがある。初期の作品はリヒャルト・シュトラウスの影響が色濃いが、1918年以降は表現主義音楽に傾斜していった。
作品

交響曲第1番(1910年 - 1911年)

交響曲第2番「死してなれ」(1911年 - 1912年)

ハムレット組曲(1919年 - 1921年)

ピアノのための3つの小品(1923年)

舞踊劇「サランボー」(1924年)

ピアノと管弦楽のための協奏的変奏曲(1961年)

エピソード

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者のポストがレオ・ボルヒャルトの事故死により空席となったとき、チェリビダッケにオーディションを受けるよう勧めたのはティーセンだったといわれる。

またベルリン・フィルを指揮して得意の絶頂にあったチェリビダッケに「効果だけを狙いすぎている」と苦言を呈し、それがきっかけでチェリビダッケはテレマンの『ターフェルムジーク』などのシンプルな形の音楽から勉強をやり直した、と語っている。一匹狼のチェリビダッケさえも言うことを聞かせる、というところにその人格者ぶりがうかがえる。

名前が、同時代のバイロイトの実力者ハインツ・ティーチェンと似ているが、全く別人である。

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更新日時:2018年2月18日(日)01:38
取得日時:2018/08/16 12:10


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