ハイレ・セラシエ1世
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エチオピア皇帝
在位1930年11月2日 - 1974年9月12日
戴冠式1930年11月2日
全名ラス・タファリ・マコンネン
出生1892年7月23日
エチオピア帝国、エジェルサゴロ
称号:皇帝
敬称皇帝陛下
His Imperial Majesty
1930年のタイムの表紙伝統的な戦士の服を着たハイレ・セラシエ1世
ハイレ・セラシエ1世(????????????, Haile Selassie I, 1892年7月23日 - 1975年8月27日)は、エチオピア帝国最後の皇帝(在位:1930年11月2日(戴冠式が行われた月日) - 1974年9月12日)。アフリカ統一機構初代議長。 エチオピア南部のショア 1916年のクーデター後、メネリク2世の娘で女帝として即位したザウディトゥの皇太子・摂政となり、実権を掌握する。 1924年4月にはヨーロッパ外遊。エチオピアの国際連盟加盟を実現した。当時エチオピアに影響力のあったイタリア王国、イギリス、フランスに対抗するため、アメリカ合衆国、大日本帝国に接近した。 ザウディトゥの崩御後、1930年4月にエチオピア帝国皇帝に即位し、同年11月2日に戴冠式が行われた[2]。1931年7月16日に大日本帝国憲法を範とし、7章55条から成るエチオピア帝国初の成文憲法たる「エチオピア1931年憲法」を制定した[3][4]。しかしながら、実態は絶対主義的な欽定憲法であり、社会体制そのものの改革には手をつけず、ガバルと呼ばれる小作地制度も温存された。 1934年の「ワルワル事件」を経て1935年10月3日にファシスト党のベニート・ムッソリーニ率いるイタリア王国が「アドワの報復」を掲げてエチオピアに進攻、第二次エチオピア戦争が勃発した。国際連盟でエチオピアはイタリアへの強制措置を訴えるもイギリスとフランスの対応が誠意を欠いたものであったために限定的な経済制裁しか行われず、翌1936年3月のマイチァウの戦い
生涯
幼年期
摂政
皇帝即位
1936年から1941年までのエチオピアはイタリア領東アフリカ帝国としてファシスト・イタリアに統治された。1939年の第二次世界大戦勃発後、東アフリカ戦線 (第二次世界大戦)にて枢軸国のイタリア軍と連合国のイギリス軍の激戦を経て、1941年にエチオピアはイギリス軍に解放され、5月5日に皇帝ハイレ・セラシエ1世は凱旋帰国した。 1945年の第二次世界大戦終結後は、かつて国際連盟で自身が訴えた集団安全保障の実践[10]として朝鮮戦争の国連軍にエチオピア軍を参加させた。また、コンゴ動乱ではコンゴ国連軍に真っ先に参加した国の1つであった[11]。アディスアベバでエジプトのガマール・アブドゥル=ナーセルと会談するハイレ・セラシエ1世(1963年) 外交面では朝鮮戦争に参戦するなど冷戦構造の中で西側寄りながら、ソビエト連邦や中華人民共和国[12][13]のような東側の国々とも国交を築き、1955年のバンドンのアジア・アフリカ会議や1961年のベオグラードの非同盟諸国首脳会議に出席して非同盟中立を掲げ、1963年にはアディスアベバで西側寄りのアフリカ諸国であるモンロビア・グループと東側寄りのアフリカ諸国であるカサブランカ・グループを汎アフリカ主義に基づいてまとめあげたアフリカ統一機構(OAU、現在のアフリカ連合)の初代議長に就き[14]、アラブ諸国とは同じ第三世界として連携しつつイスラエルとも歴史的な繋がりから軍事協力を行っていた[15][16][17][18][19]。
専制