ハイレマリアム・デサレン
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ハイレマリアム・デサレン(2011年5月)
生年月日 (1965-07-19) 1965年7月19日(58歳)
出生地 エチオピア帝国、ボロソ・ソレ
出身校アディスアベバ大学
アーバ・ミンチ大学
タンペレ工科大学
アズサ・パシフィック大学
所属政党エチオピア人民革命民主戦線
南エチオピア人民民主運動
配偶者ロマン・テスファエ[1]
第12代エチオピア首相
在任期間2012年9月21日 - 2018年4月2日
2012年8月20日 ? 9月21日(代行)
大統領ギルマ・ウォルドギオルギス
ムラトゥ・テショメ
エチオピア副首相兼外相
在任期間2010年9月1日 - 2012年9月21日
首相メレス・ゼナウィ
第2代エチオピア人民革命民主戦線議長
在任期間2012年9月16日 -
副議長デメケ・メコネン
アフリカ連合議長
在任期間2013年1月27日 - 2014年1月30日
南部諸民族州知事
在任期間2001年11月12日 - 2006年3月
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ハイレマリアム・デサレン・ボシェ(アムハラ語: ?? ??????? ????, ラテン文字転写: Hailemariam Desalegn Boshe、1965年7月19日 - )は、エチオピアの政治家。2012年から2018年まで同国の首相を務めたほか、2010年から2012年までメレス・ゼナウィ政権下で副首相兼外相、2012年8月のメレス死去後は首相代行を務めた。2012年9月15日には与党エチオピア人民革命民主戦線(EPRDF) の議長に選出された。このほか、2013年度のアフリカ連合の議長も務めた。
経歴
生い立ち

エチオピアの南部諸民族州における中心的な民族集団である、オメト族系のウォライタ族の出身。1965年、エチオピア南部ウォライタ地方のボロソ・ソレ地区に生まれた。この地域の学校に通い、少年時代のほとんどを同地で過ごした。

一家はエチオピア・プロテスタントの主流を占めるペンテ(三位一体の教えを信奉する教会)ではなく、「ただ一人のイエス」を信じるエチオピア使徒教会(ワンネス・ペンテコステ派)に所属している[2][3]

正式な氏名はハイレマリアム(敬称はハイレマリアム・デサレン)で、エチオピア正教会の典礼に用いられるゲエズ語で「聖母マリアのお力」を意味する。次の「デサレン」は父のデサレン・ボシェの名前[4]で、アムハラ語で「私は嬉しい」という意味である。
学歴

1988年、アディスアベバ大学土木工学の学位を取得。その後、アーバ・ミンチ・ウォーター・テクノロジー研究所(現在のアーバ・ミンチ大学)に大学院生として在籍するかたわら、助手として勤務した。2年間勤続した後、フィンランドタンペレ工科大学の奨学金を獲得し、衛生工学で修士号を取得。エチオピアに帰国後はウォーター・テクノロジー研究所の学部長を13年間務めるなど、様々な学術職や行政職を歴任した。また、その間にアメリカ合衆国カリフォルニア州のアズサ・パシフィック大学で組織指導論の修士号を取得した。
政治における経歴
エチオピア人民革命民主戦線

1990年代末から2000年代初めにかけて、ハイレマリアムはエチオピア人民革命民主戦線(EPRDF)の党員として政治に深く関与し、南部諸民族州の副知事になった。前任のアバテ・キショは汚職疑惑で権力の座から降ろされたが、実際には2000年にティグレ人民解放戦線(EPRDFの中核)が分裂したとき、アバテが反メレス・ゼナウィ陣営を支援したため失脚したのだと信じられた[要出典]。また、彼が良い教育を受けておらず、在任中に指導力を発揮することがほとんどなかったという意見も広く共有されていた。
南部諸民族州知事

2001年10月から2006年3月まで南部諸民族州の知事を務めたハイレマリアムは、2010年10月に副首相兼外相に昇進した[5][6]。同州知事の任期満了後は、首相府に社会問題、市民組織および協同担当顧問として2年間勤めた。そこでは、地域の政治活動に対する国際的な非政府組織 (NGO) の介入を制限する慈善団体・協会宣言法(CSO法)の法案作成チームを率いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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