ハイベリー.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}
英語: Highbury
1800年頃のハイベリー・ハウス
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人口21,959人
英式座標
ハイベリー(英: Highbury)はロンドン・イズリントン区の1地区である。 現在イズリントン区に含まれるこの地区は、かつてトレントン荘園の一部だった(この荘園はドゥームズデイ・ブックにも掲載されている)。トレントン荘園(英: Tolentone)はイルガーの兄弟レナルフ(英: Ranulf brother of Ilger)のもので[1]、キャノンベリー・ロード(英: Canonbury Road)の北側、ハロウェイ・ロード(英: Holloway Road)の東側区域全てを含んでいた。領主の邸宅は現在のホーンジー・ロード(英: Hornsey Road)の東側、セブン・シスターズ・ロードとの交差点付近にあった。荘園が無くなった後の1271年、南東側に新しい荘園の領主邸宅が建てられた(以下参照)。元々あった領主邸宅と区別するため、この邸宅は丘の上に立てられ、「ハイベリー」(英: Highbury)と名付けられた。地区名はこの邸宅から取られている。 ハイベリー荘園の場所はブリタンニア時代の駐屯軍によって、サマー・キャンプとして活用されていたと考えられている。1781年に新しいハイベリー・ハウスが建築された際、ブリタンニア時代もしくはノルマン人のタイルが発見されたが、不運にもその後紛失されている。 その後ハイベリーの所有権はアリシア・ド・バロウ(英: Alicia de Barrow)に移り、1271年には英国ホスピタル騎士団としても知られる、「エルサレムの聖ヨハネ小教会」(英: The Priory of St John of Jerusalem)へと譲渡された。この裕福な領主小教会は、農場と納屋が付いた石造りの田舎風大屋敷としてハイベリー荘園を建立した。
歴史
初期のハイベリー
ハイベリー荘園
ハイベリー・ハウスハイベリー・クロックはハイベリー・フィールズ(英語版)のすぐ北、ハイベリー・バーンとハイベリー・ヒルの交差点近くに位置している。この時計はヴィクトリア女王の在位60年を祝し、1897年に寄贈された。
聖ヨハネ騎士団が所有していたハイベリー荘園は、1540年、ヘンリー8世によって没収された。この土地は、17世紀にイングランド議会(英語版)が売却を始めるまで王領地であった。
裕福な株式仲買人(英語版)だったジョン・ドーズ(英: John Dawes)は、周辺の土地247エーカー (1.00 km2)と合わせて『ジャック・ストローの城』を入手した。1781年には1万ポンドをかけて、かつてハイベリー荘園があった場所に、ハイベリー・ハウスを建築した。それからの30年間、屋敷は次の領主であるアレクサンダー・オーバート(英語版)、更に次の領主ジョン・ベントレー[注 1]によって、大きな観測所や豪勢な庭も含め、拡張され続けた。
ハイベリー・ハウス周辺の敷地は、1794年から売却が進められた。1894年までには、ハイベリー・ハウスと、売却後も残った敷地が学校に変えられている。1938年、ハイベリー・ハウスはついに廃止され、現在では跡地にイートン・ハウス・フラットが建っている。この建物はレイ・ロード(英: Leigh Road)沿いにあり、1939年にオールド・イートン建設協会(英: The Old Etonian Housing Association)によって建設されたものである。
ハイベリー・バーン1819年のハイベリー・バーン
1381年に荘園屋敷が破壊された後、農場と納屋は、ホッピング・レーンの南側を走る、現在のセント・ポールズ・ロードの東側に保存された。セント・ポールズ・ロードはハイベリー・パーク、ハイベリー・グロウヴ(A1201)と交差する位置にある[注 2]。1740年には、ハイベリー・バーン[注 3]に小さなエールとケーキの店がオープンした。
1770年、ウィリアム・ウィロビーがハイベリー・バーンを引き継ぎ、人気を大いに高めた。彼は、隣の農場から土地と建物を譲り受けてハイベリー・バーンの規模と設備を拡張した。これにより敷地は現在のケルヴィン・ロードの先まで達し、ローンボウルズやトラップ・ボール(英語版)用の芝生、庭も整備された。ハイベリー・バーンは2,000人分の夕食を賄え、コンサートやダンスも行われたほか、ロンドンで最も人気のある店の1つになった。
1854年にハイベリー・バーンの庭で行われた、毎年恒例のローンボウルズ大会では、チャールズ・グリーンによる気球飛行が行われた。1865年まで、ここには大きなダンス舞台や改築された劇場、ミュージックホールがあり、綱渡りショーやパントマイム、チャン&エン・ブンカー兄弟[注 4]の見世物などが行われていた。ハイベリー・バーンは、自らの成功で首を絞めることになった。1869年に、バーツ病院の生徒が起こした暴動の後、地域住民はバーンで呑み騒ぐ淫らな顧客が増えていることに対し抗議した。この訴えは裁判沙汰になり、当局が1871年にバーンのダンスホール営業権を剥奪する事態となった。 1794年までのハイベリーは、ハイベリー・ハウスとハイベリー・ヒル・ハウス、ハイベリー・バーン、ハイベリー・テラスの門付きテラス、ハイベリー・プレース[注 5]で構成されており、いずれもジョン・ドーズが貸し出した土地に建てられていた。ハイベリー地区はこのスタイルを守るつもりだったようで、その証拠にセント・ポールズ・ロード / ボールズ・ポンド・ロードとセブン・シスターズ・ロード[注 6]の間に、広さ250エーカー (1.0 km2)の公園「アルバート・パーク」を建設する計画が持ち上がっていた。
住民の増加