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出典検索?: "ハイヒール" お笑いコンビ
ハイヒール
メンバーモモコ
リンゴ
結成年1982年
事務所吉本興業
活動時期1983年 -
出身NSC大阪校1期
出会いNSC
旧コンビ名金井・西村(リンゴ)
現在の活動状況テレビ
芸種漫才
ネタ作成者両者
現在の代表番組よ?いドン!
あさパラS
同期ダウンタウン
トミーズ
ジミー大西
前田政二
内場勝則
ほいけんた
ガダルカナル・タカ
つまみ枝豆など
公式サイト公式プロフィール
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ハイヒールは、吉本興業に所属する日本のお笑いコンビ。2人とも大阪府出身。
1982年11月結成、1983年6月デビュー。主に関西を中心に活動、2012年にコンビ結成30周年を迎えた。NSC大阪校1期出身。
メンバー
モモコ(本名:小林 聡〈こばやし さとり〉1964年2月21日 - )(60歳)
ツッコミ(現在)担当※過去はボケ担当。立ち位置は向かって右。旧姓:松井。大阪府大阪市阿倍野区出身、大阪市立第二工芸高等学校中退。身長158cm、血液型O型。兄がいる。1993年結婚、3児の母である。
リンゴ(本名:美村 美紀〈みむら みき〉1961年8月9日 - )(62歳)
ボケ(現在)担当、過去はツッコミ担当。立ち位置は向かって左。旧姓:西村。大阪府枚方市出身、大阪府立寝屋川高校を経て京都産業大学経営学部卒業[1]。大阪学院大学名誉博士号(経済学)を有する[2]。身長159cm、血液型A型。3人姉妹の次女(姉1人、妹1人)[3]。
人物・エピソード
コンビ共通
1983年6月、なんば花月下席の『フレッシュコーナー』で初舞台を踏む。
デビュー当時、吉本が付けた売り込みのキャッチは「女子大生と元スケバン」だった。その後このキャッチは漫才のネタに使用された。
全盛期のネタの内容はモモコのヤンキーネタや、世相風刺が多かった[4]。のちにモモコが子育てをするようになってからは、家庭ネタが増えていった。
ハイヒールを取材した連続ドラマ『ふたりぼっち 女と女』(1986年、NHKドラマ人間模様、主演:秋野暢子・遥くらら)があり、向田邦子賞にノミネートされる。
コンビ名は「女の子がぺたんこな靴から替えて一番最初に履きたいと思うのがハイヒール」「両方あって初めて靴として成立する。片一方だけではダメ」との理由で決めたとリンゴは話しているが、実際はモモコが所属していた暴走族 『レディースレーシング・ハイヒール』が由来[5]。
漫才の終わりには両手を指ぱっちんのように突き出し、片足を上げて「どうもありがと!」と締める。
関西ローカル情報番組『あさパラ!』(読売テレビ)の企画で、結成30周年記念としてコンビで南極旅行を体験する。その際には南極大陸上で漫才を敢行、「世界最南端での漫才」という記録を打ち立てている[6]。
同期のダウンタウンとは仲が良く、現在でもダウンタウンが唯一対等に接する女性芸人である。特に2024年に松本が不祥事を起こした際にはリンゴは何があったのかを真剣に知りたがり、モモコは浜田から聞こうとしたが答えてもらえなかったものの「それがいいかもしれない」と案じる形で気にかけていた[7]。
NSC入学当時は皆が自分が一番面白いと思っていたが、ダウンタウンのネタを見て自分たちを含めて全員が「2番目でいいや」と思ったという。
若手時代は、ハイヒールとダウンタウンだけで海へ遊びに行ったりドライブをしたりとグループ交際のようなことをしていたが、互いに親友という思いの方が強く恋愛までには発展しなかった。ある年4人でクリスマスパーティを開く運びになった際、ダウンタウンはリンゴとモモコに「行けなくなった」と嘘の電話をかけ、ちょうど風呂上がりだった2人の全裸姿をドアのポストから覗いていた[4]。
若手の頃は明石家さんまの野球チームにマネージャーとして参加し、毎回手作りのおにぎりを差し入れてその度に2,000円を貰っていた[8]。
子供に恵まれなかったリンゴは、モモコの子供を自分の子供のように可愛がっている。モモコの子供たちが大学に進学する際は、モモコ夫婦が2人とも大学のシステムが分からずリンゴが代わりにアドバイスした。長男が大学入学翌日に高熱を出して大学を休む際、モモコが「まだ学校の電話番号も知らない。担任の先生も分からない。どうやって休む連絡をしたらいいか分からない。お母さんこれから仕事なのにどうしよう」と慌てていた最中、リンゴに「あんたな、大学は休む連絡せんでええのよ。大学によって違うけど、担任の先生もおらんねん」と言われて驚いたという。
モモコ
芸名の由来は映画『ハイティーン・ブギ』のヒロイン・宮下桃子から[9]。
生家は電器店[10]。2歳時に両親が離婚、父の元で育つ。小学2年時に父が再婚して家政婦が辞めた後、自分たちのことは全て自分でやらされ、継母は何もしてくれず厳しい生活になったという[10]。