イスパニョーラ島(1806-1808)イスパニョーラ島(1808-1820)
この記事では、ハイチの歴史について解説する。目次
1 先コロンブス期
2 植民地時代
3 黒人反乱と黒人国家の成立
4 賠償金の圧迫と国内の混乱
5 米国による占領
6 デュヴァリエ親子による独裁
7 デュヴァリエ以降
7.1 ハイチ大地震
7.2 国連平和維持軍の撤退と治安の悪化
8 出典
先コロンブス期 Chiefdoms of Hispaniola
紀元前4000年から1000年までの間にインディアンのアラワク人(タイノ人)が南アメリカ大陸のギアナ地方から移住してきた[1]。タイノ人は島をアイティ(Haiti)、ボイオ(Bohio)、キスケージャ(Quesquiya)と呼び、島は五つのカシーケ(酋長)の指導する部族集団に分かれていた。ヨーロッパ人の征服によりアラワク人は消え去った。征服時にいたインディアンの数は、イスパニョーラ島の全てを併せるとおよそ100万人から300万人程だろうと推測されている[2]。
植民地時代詳細は「サン=ドマング」を参照「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照
1492年にクリストファー・コロンブスがイスパニョーラ島を「発見」したとき[3][4]、この島にはアラワク人(タイノ人)が住んでいたが、それから四半世紀のうちにスペインの入植者によって絶滅させられた。金鉱山が発見され、インディアンのカリブ人が奴隷として使役され、疫病と過酷な労働で次々と死んでいった。その後、スペインは主に西アフリカの黒人奴隷を使って主に島の東部を中心に植民地サント・ドミンゴ総督領
(スペイン語版、英語版)の経営をした。島の西部をフランスが1659年以降徐々に占領していったが、衰退の一途を辿るスペインにはそれを追い払う余力はなく、1697年のライスワイク条約で島の西側3分の1はフランス領とされた[4]。この部分が現在のハイチの国土となる。フランスはここを、フランス領サン=ドマング (Saint-Domingue) とした。この植民地は、アフリカの奴隷海岸から連行した多くの黒人奴隷を酷使し、主に林業とサトウキビやコーヒーの栽培によって巨万の富を産みだした[2]。
イスパニョーラ総督トゥーサン・ルーヴェルチュール。優れた戦略でイスパニョーラ島を統一し、自治憲法を制定したが、激怒したナポレオン軍の侵攻とだまし討ちによって捕らえられ、死亡した。ハイチ帝国の皇帝ジャン=ジャック・デサリーヌ。ルーヴェルチュールの死後フランス軍を打ち破り、世界初の黒人による共和国を建国した。
1789年からフランス本国では革命が勃発し、サン=ドマングの黒人奴隷とムラート(混血の自由黒人)たちはその報を受けたヴードゥーの司祭デュティ・ブークマン(英語版)に率いられ、1791年に蜂起した[2]。
トゥーサン・ルーヴェルチュール、ジャン=ジャック・デサリーヌ、アンリ・クリストフらに率いられた黒人反乱軍は白人の地主を処刑した後、フランスに宣戦布告したイギリスとスペインが、この地を占領するため派遣した軍を撃退し、サン=ドマング全土を掌握した。ルーヴェルチュールは1801年に自らを終身総督とするサン=ドマングの自治憲法を公布し、優れた戦略と現実的な政策により戦乱によって疲弊したハイチを立て直そうとしたが、奴隷制の復活を掲げたナポレオンが本国から派遣したシャルル・ルクレールの軍によって1802年に反乱は鎮圧され、指導者ルーヴェルチュールは逮捕されフランスで獄死した[2]。
ところが、新たな指導者デサリーヌの下で再蜂起した反乱軍は、イギリスの支援を受けて、1803年にフランス軍をサン=ドマング領内から駆逐した。そして、1804年1月1日に独立を宣言し、ハイチ革命が成功した[2]。
デサリーヌは国名を先住民族タイノ人由来の名であったハイチ(アイチ)に変更し、ナポレオンに倣って皇帝として即位し(ハイチ帝国)、数世紀にわたる蛮行への報復と、黒人の国であるハイチが再び奴隷制に戻ることへの脅威から、残った白人を処刑し、皇帝はハイチを黒人国家であると宣言し、白人が資産や土地を所有することを禁じた。デサリーヌは1805年に憲法を制定したが、北部のアンリ・クリストフと南部のアレクサンドル・ペションらの勢力に圧迫され、1806年に暗殺された。デサリーヌはハイチ建国の父として後の世まで敬愛されている[2]。
賠償金の圧迫と国内の混乱 南部の支配者にして初代大統領アレクサンドル・ペション。ベネズエラの奴隷制廃止を条件に、亡命してきた解放者シモン・ボリーバルを物心ともに支援した。ボリーバルはハイチを拠点にベネズエラを解放し、1819年に勅令でベネズエラの部分的奴隷制廃止を宣言した。
この後、クリストフによって世界で初の黒人による共和国、かつラテンアメリカ最初の独立国が誕生し、南北アメリカ大陸の他の植民地の黒人たちや、独立主義者、そしてアメリカ合衆国の黒人奴隷たちを刺激した[2]。
しかし北部のハイチ国(フランス語: Etat d'Haiti)と南部のハイチ共和国(フランス語: Republique d'Haiti)との南北共和国に分かれて争い、南部の共和国の事実上の支配者ペションは農地改革でプランテーションを解体し、独立闘争の兵士たちに土地を分け与えた。その結果、たくさんの小農が出現した。この時期に南アメリカの解放者、シモン・ボリーバルがペションの下に亡命している[2]。