ハイセイコー
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ハイセイコー
道の駅サラブレッドロード新冠前のハイセイコー像
品種サラブレッド
性別
毛色鹿毛
白斑流星、右後一白
生誕1970年3月6日
死没2000年5月4日(30歳没・旧31歳)
チャイナロック
母ハイユウ
母の父カリム
生国 日本北海道新冠町
生産者武田牧場
馬主(株)王優
→ホースマンクラブ
調教師伊藤正美(大井
鈴木勝太郎東京
調教助手鈴木康弘(東京)
厩務員山本武夫(大井)
→大場博(東京)
競走成績
タイトル優駿賞大衆賞(1973年)
JRA顕彰馬(1984年選出)
NARグランプリ特別表彰馬(2000年)
生涯成績22戦13勝
地方競馬)6戦6勝
中央競馬)16戦7勝
獲得賞金2億1956万6600円

勝ち鞍

八大競走皐月賞1973年


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ハイセイコー(1970年 - 2000年)は、日本競走馬。1970年代の日本で社会現象と呼ばれるほどの人気を集めた国民的アイドルホースで、第一次競馬ブームの立役者となった。1984年顕彰馬に選出。

※馬齢は旧表記[注 1]に統一する。
概要

1972年(昭和47年)7月、大井競馬場でデビュー。同年11月にかけて重賞青雲賞優勝を含む6連勝を達成。翌1973年(昭和48年)1月に中央競馬へ移籍し、「地方競馬の怪物」として大きな話題を集めた[1]。移籍後も連勝を続け、4月に中央競馬クラシック三冠第1戦の皐月賞を勝つとその人気は競馬の枠を超え[2][3]、競馬雑誌やスポーツ新聞以外のメディアでも盛んに取り扱われるようになり[4]、競馬に興味のない人々にまで人気が浸透していった[5]5月27日東京優駿(日本ダービー)で敗れたことで不敗神話は崩壊したが人気は衰えることはなく[6][7][8]、むしろ高まり[9][10][11][12]第一次競馬ブームと呼ばれる競馬ブームの立役者となった[13]。このブームは、後年1990年前後に起こった武豊オグリキャップの活躍を中心にした第二次ブームと並んで、日本競馬史における2大競馬ブームのうちの一つとされている[14]。ハイセイコーが巻き起こしたブームは日本の競馬がギャンブルからレジャーに転じ[15][16]、健全な娯楽として認知されるきっかけのひとつになったと評価されている[17]1984年、「競馬の大衆人気化への大きな貢献」が評価され、顕彰馬に選出された[18][19]

競走馬引退後に種牡馬となった後も人気は衰えず[12][20][21]、種牡馬として繋養された明和牧場には観光バスの行列ができるほど多くのファンが同牧場を訪れるようになり[22]、それまで馬産地を訪れることが少なかった競馬ファンと馬産地を結び付けた[22]。産駒には自身の勝てなかった東京優駿を勝ったカツラノハイセイコをはじめ3頭の八大競走およびGI優勝馬、19頭の重賞優勝馬を送り出した。1997年(平成9年)に種牡馬を引退した後は北海道の明和牧場で余生を送り、2000年(平成12年)5月4日心臓麻痺のため同牧場で死亡した[23][24]
生涯
誕生・デビュー前

1970年(昭和45年)、北海道日高支庁新冠町の武田牧場に生まれる。馬体が大きく脚や蹄が逞しかったことから、牧場関係者は赤飯を炊いて誕生を祝った[25]。武田牧場場長の武田隆雄によると、生まれた時から馬体が大きく一際目立った馬で、他の馬と集団で走る際は常に先頭を切った[26][注 2]。武田は当歳時から中央競馬にいっても十分通用するレベルの馬だと感じ[28]、夏になると、「ダービーに勝つとはいいません。でもダービーに出られるぐらいの素質があると思います」と周囲に喧伝するようになった[29][30]。また1957年の天皇賞(春)を優勝したキタノオー以来の「武田牧場の傑作」として期待を集めて新冠町の評判を呼び[31]、2歳時には「新冠の一番馬」という評判を得るようになった[28]

ハイセイコーは中央競馬の調教師からも中央でのデビューの誘いを受けたが[31]、母ハイユウの馬主であった青野保が代表を務める(株)王優に所有され[3][31]、ハイユウを管理していた大井競馬場調教師の伊藤正美によって管理されることになった[30]1971年(昭和46年)9月に伊藤厩舎に入厩し、馴致が行われた後、調教が開始された。騎手として調教と馴致に携わった高橋三郎によると、ハイセイコーはこの時点ですでに、他の幼い馬とは「大人と子供」ほどに異なる馬体の大きさと風格を備えていた[32]。また、この時期にはすでにマスコミが盛んにハイセイコーについて取材をし、中央競馬の調教師から移籍が持ちかけられるようになっていたといわれている[32]1972年(昭和47年)5月、担当厩務員の山本武夫はハイセイコーについて、金沢競馬場の厩務員で同郷出身の宗綱貢に、「800メートルの能力試験を49秒そこそこで走る、すごい馬だ」と語った[33]
競走馬時代
3歳時(1972年)

1972年6月にデビューする予定であったが、出走を予定していたレースが不成立となった。高橋によるとこれは調教師の伊藤が他の出走馬を見下す発言をしたのに反発した調教師たちが「いくら強くてもレースに出られなければそれまでだ」とお灸をすえる意味で故意に管理馬の出走を回避したためであったが、後になって「ハイセイコーとの対戦に恐れをなして出走を回避した」と解釈されるようになったという[34]。翌7月12日大井競馬場で行われた未出走戦で辻野豊を鞍上にデビュー[31]。このレースを同競馬場のダート1000mのコースレコードとなる59秒4で走破し、2着馬に8馬身の着差をつけて優勝した[35]。従来のレコードはヒカルタカイ[注 3]が記録した1分0秒3で、ハイセイコーは大井競馬史上初めて1000mを1分を切って走った馬となった[28]。この記録を鞍上の辻野に強く前進を促されることのないまま更新したことから、10年に1頭の大物と評された[36]。辻野はこのレースについて、速さのあまり第3、第4コーナーでは馬体を傾けながら走ったためバランスを取るのに精一杯になり、前進を促すどころではなかったと回顧している[32]

その後、ハイセイコーは大井での最終戦となった11月末の青雲賞にかけて常に2着馬に7馬身以上の着差をつける形で6連勝を達成[37]、大井での全6戦で2着馬につけた着差の合計は56馬身[38]、平均着差は9.3馬身に達した[39]。2戦目の条件戦では2着のセッテベロナにおよそ16馬身の大差をつけて逃げ切り勝ちを収め[31]、4戦目のゴールドジュニアでは大井競馬場ダート1400mのコースレコードを更新し、6戦目の青雲賞で重賞初優勝を達成した[注 4]。作家の石川喬司は、連勝中のハイセイコーの評判を聞きつけて競馬評論家大川慶次郎とともにゴールドジュニアを見に大井競馬場へ出かけ、「こいつは、中央に来ても絶対活躍できる」と話し合っていたことを明かしている[38]。晩秋を迎える頃にはスポーツ紙が「大井に怪物現れる」などと報道し始め[41]、調教師の伊藤は5戦目の白菊特別を勝った頃から「ハイセイコーはいつ中央入りするのか?」とマスコミから質問されるようになった[30]
4歳時(1973年)
中央競馬へ移籍

1973年1月12日、ハイセイコーはホースマンクラブに5000万円[注 5]で売却された[42]。武田牧場場長の武田隆雄は、(株)王優がはじめからハイセイコーを中央競馬へ移籍させる意向であったようだと述べており[26]、江面弘也によると武田牧場側は売却に際し、大井でデビューさせた後中央競馬へ移籍させるという条件を付けていた[3][40]。作家の赤木駿介によると、ホースマンクラブが新たな馬主となったのは、同クラブの代表者である玉島忠雄が大井競馬を訪れた際、条件次第ではハイセイコーを購買できるという噂を聞きつけたのがきっかけであった[43]。大川慶次郎によると、当時の日本競馬界では「中央は中央、地方は地方」という風潮が強く、地方から中央への移籍は4歳の秋以降に行われるのが一般的で、4歳になったばかりの時点で行われるのは珍しいことであった[44]

1月16日、ハイセイコーは東京競馬場鈴木勝太郎厩舎に入厩した[30][31][45]。この時ハイセイコーは初めて足を踏み入れる厩舎の様子を用心深く探る素振りを見せ、この用心深い性格が後に出走レース選択に関し陣営を苦しめることになる[45]。新たな担当厩務員は、鈴木厩舎の中で人格・技術ともに評価の高い大場博が務めることになった[46]


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