「ハイウェイマン」のその他の用法については「ハイウェイマン (曖昧さ回避)」をご覧ください。
「Asalto al coche(馬車を襲う強盗)」フランシスコ・デ・ゴヤ現在ナショナル・ポートレート・ギャラリーにあるイングランドのハイウェイマン、ジェームズ・ハインド
ハイウェイマン(英:Highwayman)とは、幹線道路(highway)沿いにおいて旅行者や通行人を狙った強盗のこと。日本語でいうところの追い剥ぎ(おいはぎ)。通例では徒歩で移動して同様の強盗を行ったフットパッド(Footpad)と区別され、ハイウェイマンは馬で移動した者を指し、フットパッドよりも上等な部類の犯罪者とみなされていた[1]。イギリスにおいてはエリザベス朝時代から19世紀初頭まで見られ、また他国でも19世紀中後期まで見られた犯罪形態であった。キャサリン・フェラーズ(英語版)など女性であるパターンも存在したと考えられ、特にフィクションでは彼女らは男装している。
ハイウェイマンという言葉の初見は1617年からであり[2]、こうした(特に暴力を伴う)盗みを生業とする者たちを、ロビン・フッドのようなヒーロー的な存在として見る場合には、しばしば「街道の騎士(knights of the road)」や「街道の紳士(gentlemen of the road)」などの婉曲的な表現で呼ばれた[3]。19世紀のアメリカ西部ではロード・エージェントと呼ばれたこともあり、オーストラリアではブッシュレンジャーとして知られている。
以下ではイギリス(イングランド)の事例を中心に解説する。 ハイウェイマンが隆盛を極めたのは、1660年の王政復古から、1714年のアン女王の死までの期間である。彼らの一部は元兵士であったことが知られており、中にはイングランド内戦やフランスとの戦いにも参加していた将校もいた。彼らの活動を可能にした最大の要因は統治の欠如と治安要員の不在であった。管轄の巡視兵ではほぼ無力であり、日常的な発見や逮捕は困難であった。ほとんどのハイウェイマンは旅行者から金品を奪った。一部には手形を処分できる人脈もあった。他には街道を使う輸送業者にシノギを持つ者もおり、襲わない代わりとして定期的に身代金(みかじめ料)を受け取っていた[4] 。 彼らはしばしば公共の駅馬車も含む警備されていない馬車を襲撃し、郵便馬車も頻繁に狙われた[5]。「止まれ、あり金を全部置いて行け!(Stand and deliver!)[6]」(他にも「Stand and deliver your purse!」「Stand and deliver your money!」など)という有名な文句は17世紀から使用されていた。名前は立派だったが食い詰めていたある男は、道で出会った男を足止めした咎で有罪判決を受けた。彼はほんの些細なもののために「止まれ、あり金を全部置いて行け!」と要求したんだ。旅行者はカプチン会の修道士よりも金を持ってなくて、かろうじて金目のものといえば1ポンドのタバコくらいで、それを礼儀正しく渡してやったんだ。 ? The Proceedings of the Old Bailey, 25 April 1677[7] 「お前の金か命を寄越せ!(Your money or your life!)」というフレーズは18世紀半ばの公判記録で言及されている。ジョン・モーソンによる証言:私とアンドリュース氏で一緒に ボルチモア卿
概要
ハイウェイマンによる多くの有名な被害者もいた。1774年にノース首相は以下のような記録を残している。「昨夜、予期していた通り奪われてしまった。私たちの損害は大きくなかったが、騎乗御者がすぐに止まらなかったために2人のハイウェイマンのうち1人が彼に発砲した。場所はガナーズベリー(英語版)・レーンの終わりのところだ」。ハイドパークで撃たれたホレス・ウォルポールは、「真昼であっても、まるで戦うつもりであるかのように旅を強いられている」と苦々しく述べた。当時は犯罪が蔓延し思わず巻き込まれることもあり、ハイウェイマンと出くわした場合、抵抗を試みれば血を見る可能性があった。歴史家のロイ・ポーター(英語版)は、直接的な身体的行為の行使を、公的および政治的生活の特徴として説明した。「群衆の乱闘から、竜騎兵のマスケット銃による一斉射撃まで、暴力という単語はプラム・プディングと同じくらいありふれたものだった。力は単に犯罪行為だけのものではなく、社会的あるいは政治的な日常的な問題解決のための手段でもあり、犯罪と政治の区別を曖昧にした?? 例えばハイウェイマンは「道の紳士」のようなアイロニーでロマンティックな扱いを受けた」[9]。
同時期の18世紀においてフランスの田舎道は、イングランドの幹線道路よりも一般に安全であった。これは今日に国家憲兵隊として知られる制服の支給など統一的な警官隊の整備による功績である。イングランドではこのような部隊は通常の軍隊と混同されることが多く、しばしば王室による圧政の道具として用いられた[10]。 ハイウェイマンを義賊として扱うことは長い歴史がある。標的に対して正面から挑み、望むものを手に入れるために戦いの準備をしていた勇敢な男たちとして多くの人々の称賛を得た[11]。最も有名なイングランドの義賊としては中世のアウトローであるロビン・フッドがいる。他にも義賊扱いされた者としては、 17世紀から19世紀初頭のアイルランドにおいて強盗は、イングランドやプロテスタントの支配や定住に対する一般的な抵抗運動としてみなされることが多かった。17世紀半ばからイングランド人を標的にした盗賊は「トーリー」として知られていた(トーリー党の語源)。17世紀後半にはラッパリー ハイウェイマンはしばしばロンドンから放射状に伸びる主要幹線で待ち伏せた。通常、荒野や森林といった孤立した立地が選ばれた。バースとエクセターへの道路が交差するハウンズロウ・ヒース
義賊としての扱い
騎士党のハイウェイマンことジェームズ・ハインド
フランス出身の強盗紳士クロード・デュバル(英語版)
ジョン・ネヴィソン(英語版)
ディック・ターピン
シックスティーンストリング・ジャックことジョン・ラン(英語版)
ウィリアム・プランケット(英語版)と彼の相棒で強盗紳士ことジェームズ・マクレーン(英語版)
イングランド支配下のアイルランド
ハイウェイマンの活動場所
ロンドンの南方で活動したハイウェイマンは、イギリス海峡の港や、1920年に温泉で貴族の遊興地となったエプソム、また1625年から上位層の間で人気を博した競馬やスポーツイベントが開かれたバンステッドダウンズ(英語版)などに通じる街道で、裕福な通行人を狙っていた。18世紀後半からはロンドンからライゲート(英語版)、ブライトン、サットンに通じる幹線道路が狙われるようになった。危険だとみなされていた公有地や荒野にはブラックヒース(英語版)、パットニーヒース(英語版)、ストリータムコモン(英語版)、ミッチャムコモン(英語版)、ソーントンヒース(英語版)(「死刑執行人のエーカー」または「ギャロウズ・グリーン」としても知られている絞首台のエリア)、サットンコモン(英語版)、バンステッドダウンズ、レイゲイトヒース(英語版)がある[16]。
17世紀後半から18世紀初頭にかけては、ハイド・パークに出没するハイウェイマン対策としてウィリアム3世はセント・ジェームズ宮殿とケンジントン宮殿の間のルート(ロットン・ロウ)を、夜間はオイルランプで照らさせた。これはイギリスで最初の街灯となった[17]。