ノーマン・ホイットフィールド
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ノーマン・ホィットフィールド
Norman Whitfield
生誕 (1940-05-12)
1940年5月12日
出身地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ハーレム
死没 (2008-09-16) 2008年9月16日(68歳没)
ジャンルソウルファンク
職業ソングライター、プロデューサー
担当楽器ピアノ、キーボード
活動期間1958年 ? 1986年
レーベルモータウン
ホイットフィールド

ノーマン・ジェシー・ホィットフィールド(Norman Jesse Whitfield、1940年5月12日 ? 2008年9月16日) はアメリカ合衆国のソングライターレコード・プロデューサー

1960年代のモータウンにおける諸作品により広く知られる[1] 。モータウン・サウンドの創造者の一人であり、1960年代末期のサイケデリック・ソウルの発展に寄与した[1]。25年のキャリアにおいて、さまざまなモータウン・アーティストのために不滅のヒットを制作した。代表作は

テンプテーションズ『Ain't Too Proud to Beg』『(I Know) I'm Losing You』『Cloud Nine』『I Can't Get Next to You』『Ball of Confusion (That's What the World Is Today)』『Just My Imagination (Running Away with Me)』『Papa Was a Rollin' Stone』

マーヴィン・ゲイ悲しいうわさ(I Heard It Through the Grapevine)』、

エドウィン・スターの『黒い戦争 (War)』、

The Undisputed Truth『Smiling Faces Sometimes』

など。

特にテンプテーションズのプロジェクトに多くかかわり、1969年から1973年までの彼らの8枚のアルバムを単独プロデュースした。彼は1975年に自身のレーベル「ホィットフィールド・レコード」を創設し、ローズ・ロイスのヒット『Car Wash』を生み出した。

彼はモータウン時代の作詞協力者バレット・ストロングとともに2004年にソングライターの殿堂入りした[2]

2024年4月21日には、米国・Rock & Roll Hall Of Fameより、2024年度『ロックの殿堂 ミュージカル・エクセレンス・アワード』に選出された[3]
生涯
少年時代とキャリア

ハーレム出身で、10代の大半をビリアード場で過ごす。10代後半になると、家族とミシガン州デトロイトに引っ越し、父は、妹の夫が所有するドラッグストア「バースウェル・ドラッグス」のチェーン店で働き始めた。ミシガン州の北西高校に編入。

1959年、19歳になるとモータウンヒッツヴィルUSA事務所に何度も訪れ、仕事を求めた。当時モータウンは成長期だった。モータウン創立者ベリー・ゴーディーは彼の熱意を認め、彼を「品質管理部門」担当にした。そこでは歌を発売するかどうかが決められていた。その後モータウンの社内作曲スタッフとなる。

初期の作品はある程度成功を収めた。

マーヴィン・ゲイ『Pride and Joy』、

マーヴェレッツ『Too Many Fish in the Sea』、

ヴェルヴェレッツ『Needle in a Haystack』。

モータウン内部で確固たる地位を築いたのはプロデュースを始めた時。1966年(26歳)にスモーキー・ロビンソンに代わってテンプテーションズのメイン・プロデューサーとなった。それは、1966年に彼の『Ain't Too Proud to Beg』がロビンソンの『Get Ready』よりもポップチャートで好成績を収めた直後のことだった。
ザ・テンプテーションズ1971年のテンプス

1966年から1974年までテンプテーションズのすべての作品を制作。SE[要曖昧さ回避]などの実験を繰り広げた。[1] モータウン初のヒット曲でビートルズがカバーした『Money (That's What I Want』を歌っていたバレット・ストロングをパートナーとし、テンプテーションズマーヴィン・ゲイグラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップスなどに曲を書いた。

マーヴィンとグラディスは『悲しいうわさ』を別々にヒットさせた。グラディスのヴァージョン(1968年)はモータウン史上最大のヒットだったが、一年後のマーヴィンのヴァージョンはそれを越えた。

1968年にテンプテーションズのリード・シンガーがデヴィッド・ラフィンからデニス・エドワーズに代わると、グループのサウンドをより激しく暗いものにした。それはスライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンファンカデリックのサウンドを取り込んだ、サイケデリック・ロックファンクの融合であった。 [4]

彼はまた歌の主題を変えた。ラブソングから当時の社会問題戦争貧困政治)へ。テンプテーションズの新しいサイケデリック・ソウルが初めにあらわれたのは1968年後半の曲『クラウド・ナイン』だった。それはモータウンにとって最初のグラミー受賞曲となり、「デュオまたはグループのヴォーカルによるベスト・ R&Bパフォーマンス」を獲得した。

彼とテンプテーションズにとって二度目のグラミー受賞曲は1973年のシングル『Papa Was a Rollin' Stone』だった。このシングルのB面のインストゥルメンタル曲によりホィットフィールドは、アレンジャーのポール・ライザーとともに「ベストR&Bインストゥルメンタル・パフォーマンス賞」を獲得し、バレット・ストロングとともにBest R&B Song賞を獲得した。
「サイケデリック・ソウル」、モータウンとの決裂

テンプテーションズエドウィン・スター、The Undisputed Truthなどのサイケデリック・ソウルは1960年代後半のモータウン・サウンドをアップデートした。[1] 曲の長さ・ギターのディストーション・ドラムスの多重録音・ヴォーカル・アレンジの工夫などは彼の制作、また彼が指導したモータウンの後進たちのトレードマークになった。弟子の中にはフランク・ウィルソンがいる。

しかし、ホィットフィールドとテンプテーションズの間の摩擦と対立が顕在化しはじめた。グループがいやがったのは、ホィットフィールドが楽器編成にばかりこだわってヴォーカルを軽んじるようになったことと、ロマンティックなバラードをほとんど作らなくなったことであった。
ホィットフィールド・レコード(Whitfield Records)と後半生

1973年(33歳)、モータウンを去り、自身のレーベル「ホィットフィールド・レコード」を創設。

最初のリリースは、モータウンから引き抜いたThe Undisputed Truthだった。その後ローズ・ロイス、ウィリー・ハッチ、Nytro、Mammatapee、ジュニア・ウォーカーと続く。[1]

1976年にはローズ・ロイスのシングル『Car Wash』がスマッシュ・ヒットとなる。かつてモータウン時代にエドウィン・スターのバック・バンドであったローズ・ロイスはさらに3枚のアルバムを作ったが、『Car Wash』の成功を超えることはなかった。


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