ノーマン・スコット_(軍人)
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ノーマン・スコット
Norman Scott
ノーマン・スコット
生誕1889年8月10日
インディアナ州 インディアナポリス
死没 (1942-11-13) 1942年11月13日(53歳没)
ガダルカナル島沖(第三次ソロモン海戦)
所属組織 アメリカ海軍
軍歴1911 - 1942
最終階級 海軍少将
戦闘第一次世界大戦
第二次世界大戦
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ノーマン・スコット(Norman Scott, 1889年8月10日-1942年11月13日)はアメリカ海軍の軍人、最終階級は少将名誉勲章受章者。第二次世界大戦中、水上戦闘で戦死した少将以上のアメリカ海軍軍人のうちの一人である。

1942年10月11日のサボ島沖海戦ではレーダーを(不完全ながら)駆使して日本艦隊に勝利したが、続く11月13日の第三次ソロモン海戦で再び日本艦隊と交戦してキャラハンとともに戦死し、死後、太平洋戦線での戦功により名誉勲章が追贈された。
生涯
前半生

ノーマン・スコットは1889年8月10日、インディアナ州インディアナポリスで生まれる。1907年に海軍兵学校(アナポリス)に進み、1911年に卒業。卒業年次から「アナポリス1911年組」と呼称されたこの世代からはダニエル・J・キャラハン沖縄戦戦艦大和」と対決し損なったモートン・デヨ、潜水艦部隊を率いたロバート・H・イングリッシュ[1]室蘭艦砲射撃を行ったオスカー・C・バジャー2世(英語版)[2]、空母任務群を率いたジョン・W・リーヴス[3]らがいる[4][注釈 1]

アナポリス卒業後、スコットは士官候補生として1911年から1913年の間は戦艦「アイダホ」乗組みとなり、1912年3月に少尉に任官する。戦艦配属のあとは駆逐艦関連部門に配属され、第一次世界大戦参戦後の1917年12月当時は駆逐艦「ジェイコブ・ジョーンズ(英語版)」 (USS Jacob Jones, DD-61) であった。12月6日、「ジェイコブ・ジョーンズ」は英仏海峡で、伝説的なハンス・ローゼ(ドイツ語版)艦長が指揮するドイツ潜水艦「U53(英語版)」の砲雷撃を受けて沈没したが[5]、スコットは冷静に対処して生還し、のちに表彰された。少佐に一時昇級していたスコットは大戦休戦までの間、ウッドロウ・ウィルソン大統領の海軍担当補佐官を務め、1919年にはイーグル級哨戒艇で構成された一隊のうち、PE-2 と PE-3 を指揮した[6]

1920年代初めのスコットは駆逐艦や戦艦「ニューヨーク」、ハワイで勤務し、1924年から1930年までの間は戦闘艦隊(英語版)のスタッフやアナポリスの教官を務めた。駆逐艦「マクレイシュ(英語版)」 (USS MacLeish, DD-220) と「ポール・ジョーンズ」の艦長を務めたのち、ニューポート海軍大学校上級課程を受講した。海軍大学校の課程を修了ののちは海上勤務に戻り、軽巡洋艦シンシナティ」の副長や、中佐昇進後の1937年から1939年にはブラジルにおける海軍事務所のメンバーとなった。大佐に昇進すると重巡洋艦ペンサコーラ」艦長となり、1941年12月8日の真珠湾攻撃を迎えた[6]。年明けた1942年の数か月間、スコットは海軍作戦部のスタッフとなり、5月に少将に昇進後、8月のガダルカナル島上陸作戦ツラギ島攻撃から始まる反攻作戦に、火力支援部隊の司令官として南太平洋に向かった。
サボ島沖海戦「サボ島沖海戦」も参照

スコットは巡洋艦と駆逐艦からなる第64.2任務群[7]司令官として船団護衛に従事し、機会あれば「東京急行」を阻止できるよう、夜間の戦闘訓練を欠かさなかった[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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