ノーフォーク島の世界遺産
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オーストラリアの
囚人遺跡群
オーストラリア

キングストンに残る囚人遺跡の建築物
英名Australian Convict Sites
仏名Sites de bagnes australiens
面積555.6ヘクタール
登録区分文化遺産
登録基準(4)、(6)
登録年2010年
公式サイト ⇒世界遺産センター(英語)
使用方法表示

キングストンとアーサーズ・ヴェールの歴史地区(Kingston and Arthur's Vale Historic Area, KAVHA)とは、オーストラリアノーフォーク島に残る歴史資産。2010年に、UNESCO世界遺産に「オーストラリアの囚人遺跡群」のひとつとして、登録された。
歴史
ヨーロッパ人上陸以前の歴史

南太平洋に浮かぶノーフォーク島にポリネシア系の住民が居住を開始したのは、14世紀から15世紀のことといわれる[1]。ポリネシア系住民の遺跡は、アーサーズ・ヴェールと現在呼ばれている地区に展開されており、バナナの栽培や難破したカヌーが残っている[1]。とはいえ、当時のアーサーズ・ヴェールの遺構は、歴史的に断絶しており、ポリネシア系住民がノーフォーク島から姿を消したのは謎とされている[1]
第一次入植(1788年-1814年)

ノーフォーク島にヨーロッパの住民が上陸したのは、1774年10月10日のことである[2]ジェームズ・クックは、レゾリューション号に乗り、第2回航海(1772年-1775年)を実施した際に、ノーフォーク島はヨーロッパ人に発見された。上陸したクックは、直ちに、ノーフォーク島をイギリスの主権下にあることを宣言した[2]

ノーフォーク島への移住が本格的に開始されたのは、1788年になる。アーサー・フィリップによるニューサウスウェールズ植民地上陸後、直ちに、ノーフォーク島への探検が実施された。フィリップ・ギドレー・キング(Phillip Gidley King)を中心とする一行がノーフォーク島へ上陸に成功したのは、1788年3月2日のことである[2]。キング一行の構成員は、4人の軍人と4人の公務員、9人の男性囚人、6人の女性囚人で構成されていた[2]。彼らの最初の定住地は、船舶の停泊に用意で新鮮なを手に入れることができる現在のキングストンであった[2]。その後の島の開拓は、アーサーズ・ヴェール方面へと延びていった[2]

1790年、シリウス号が難破したことにより、ノーフォーク島は、一時的に孤立した状態となった[3]。島に残された住民は飢餓生活を余儀なくされ、この生活は翌年、キングがシドニーからノーフォーク島に帰還するまで、継続した[3]1791年より、キングの手によって、キングストンの街の設計とそれに基づく本格的な建設が開始された[3]1793年までには、キングストンは、小さな村の形を形成し、4つのメイン・ストリートと島の各所を結ぶ道路が建設された[3]。インフラ面の整備は続き、1795年中には、アーサーズ・ヴェールには水車が建設されると同時に、ポイント・ハンター地区には、脱穀用の風車が建設された[3]

キングストンの開発は、キングがノーフォーク島を去り、彼の後を継いだJoseph Foceauxの指揮下でも続けられた。上陸した地点の施設を改修する形で、簡素だった施設が石造りのバラック、倉庫牢獄が建設された[3]。しかし、1800年中には、ノーフォーク島内で、囚人による陰謀事件が発生した[3]。その結果として、ノーフォーク島総督の権威を上昇させるために、簡素であった総督官邸を新築することとなった[3]

ノーフォーク島の開発の主役は、自由になった囚人たちと軍隊のメンバーである。彼らには、大小さまざまな形ではあるが、キングストン周辺(南はシドニー湾から北はカスケードまでの間)の土地が与えられた[3]

Foceauxがノーフォーク島を1803年に去った。しかしながら、1792年に1156人を記録していた人口[3]が1801年には960人に減少していた[4]。一方、同じ頃、タスマニア島の開発が進展していった。さらに、ノーフォーク島内での自給が困難だった事情とあいまって[4]、ノーフォーク島第一次移住は、1814年2月28日に終わりを告げ、建築物は火によって、破却されることとなった[4]
第二次移住(1822年-1854年)

1822年ラックラン・マッコーリー総督のレポートがイギリス本国で、ノーフォーク島が再度、注目を浴びることとなった[4]。その結果、1824年、ノーフォーク島植民地の再開が実施された。バサースト伯爵は、ブリスベーン総督に対して、ノーフォーク島を流刑植民地で最も厳罰な場所とする方針であった。1825年に再上陸した人間の構成は、軍隊のメンバーを除くと6人の女性と6人の子供、57人の囚人から構成されており、囚人の多くは、技師であった[5]。第二次移住を組織したロバート・タートンは、キングストンにかつての植民地の廃墟を見出したが、2ヶ月の間、吹きさらしのもとで生活した[5]。1825年12月までに、倉庫とFoveauxが建設した総督官邸は再建され、さらに、かつての道路も再建された[5]ノーフォーク島に建設された囚人のバラックの計画図案(1838年のもの)

1826年には、ノーフォーク島に居住するすべての女性は自由人であるという政策が取られるようになった[5]1833年までには、ノーフォーク島に居住する囚人は600人を数えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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