ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道(ノーフォーク・アンド・ウェスタンてつどう、N&W: 英語: Norfolk and Western Railway、報告記号はNW)は、200以上の鉄道会社を合併してできた、アメリカ合衆国で1838年から1982年まで存在していた1級鉄道会社である。その150年間の歴史を通じて大半の期間、本社はバージニア州ロアノークにあった。ロゴマーク
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道は、社内のロアノーク工場で蒸気機関車とホッパ車を製造していたことで知られる。1960年頃、アメリカの主要な鉄道会社の中で最後に蒸気機関車からディーゼル機関車へと移行した。
20世紀中ごろ、ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道は長年のライバルであった、ポカホンタス炭田で運行するバージニアン鉄道と合併し、さらにニッケル・プレート鉄道やウォーバッシュ鉄道など隣接地域の他の鉄道会社と合併を繰り返して規模と収益性を拡大し、合衆国内14州とカナダの1州に範囲を広げて、大西洋からミシシッピ川、五大湖の間で7,000マイル(11,000km)以上に及ぶ路線網を形成した。
ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道は、同じく収益性の高い鉄道会社であったサザン鉄道と合併して、1982年にノーフォーク・サザン鉄道となった。
ウィリアム・マホーンによる建設と南北戦争)(現在はホープウェル市となっている)から、アポマトックス川(Appomattox River
1847年にバージニア士官学校の工学課程を卒業したウィリアム・マホーンは、フランシス・マロリー博士(Dr. Francis Mallory)に採用されて1853年からノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道(Norfolk and Petersburg Railroad)の建設に関わり、南北戦争前の時期にその社長に就任した。バージニア州ノーフォークそばのグレート・ディスマル・スワンプ(大沼地帯、Great Dismal Swamp)を横断するために建設されたマローンの革新的な丸太道は、沼の表面の下に直角に材木の基礎を敷きこんだものであった。150年後の現在でもなお使用されており、膨大な石炭輸送の荷重に耐えている19世紀の非常に効果的な建設物である。
マホーンは、バージニア州アイルオブワイト郡のスミスフィールド(Smithfield)出身の、オテリア・バトラー(Otelia Butler)と結婚した。彼女は教養のある女性であったと言われている。彼女の父親、ロバート・バトラー博士(Dr. Robert Butler)は、バージニア州の財務長官であった。
有名な話として、オテリアとウィリアムは新しく完成したノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道の52マイル(84km)のサフォーク(Suffolk)とピーターズバーグを結ぶ接線上の路線に乗って旅行しながら、当時彼女が読んでいたウォルター・スコット卿の書いたアイヴァンホーの中から駅に名前を付けていった。スコットランドの歴史的な小説の中から、ウィンザー(Windsor)、ウェーブリー(Waverly)、ウェークフィールド(Wakefield)の名前が選ばれている。彼女はまた、スコットランドの一族のMcIvorという名前からサウサンプトン郡のアイボア(Ivor)という小さな町の名前を作り出した。2人が合意できなかった場所では、2人はその「論争」を記念して新しい言葉を作り出したと言われ、それが小さなディスプタンタ(Disputanta)の町が名づけられた由来となっている。ノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道は1858年に完成した。
南北戦争中、マホーンはアメリカ連合国の陸軍少将となった。彼は1864年から1865年に掛けてのピーターズバーグ包囲戦中のクレーターの戦いでの活躍で英雄とみなされている。オテリアは連合国首都のリッチモンドで看護師として働いた。
ノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道のうち、ズニ(Zuni)にあるブラックウォーター川(Blackwater River)から東の部分は戦争の大半を通じて合衆国側の手にあり、戦争でかなりの被害を受けた。シティ・ポイント鉄道の東側は、合衆国側のユリシーズ・グラント将軍にとってピーターズバーグ包囲戦の中で重要な役割を果たしており、合衆国軍用鉄道(United States Military Railroad)の手で運行されていた。サウス・サイド鉄道もまたかなり破壊された。
アポマトックスで1865年4月9日にロバート・E・リー将軍が降伏した後、配下の将軍たちに対して、帰還して南部の再建に力を注ぐように命じ、マホーンもこの指示に従った。 マホーン夫妻は、南北戦争後のバージニア州が再建に向けて動き出した時期では著名な人物であった。戦後、マホーンは「彼の」ノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道の再建に早速取り掛かり、3つの幹線をバージニア南部を横切って西部への連絡点へとつなぐ彼の夢を再開した。彼は何とか3つ全ての社長になり、1870年にノーフォーク・アンド・ピーターズバーグ鉄道、サウス・サイド鉄道、バージニア・アンド・テネシー鉄道を連合させて、ノーフォークからブリストル(Bristol
アトランティック・ミシシッピ・アンド・オハイオ鉄道の創設とノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道の成立
1870年代前半、アトランティック・ミシシッピ・アンド・オハイオ鉄道は数年間に渡って利益を上げたが、他の多くの鉄道会社と同じように、1873年の不況(Panic of 1873)の影響で経営危機に陥った。マホーンは、イングランドとスコットランドの債券保有者との関係が悪化する1876年までさらに数年経営を続けたが、その後破産管財人が彼の仕事を監督するようになった。破産管財人の管理下での数年間にわたる運営の後、1881年に北部の資本が経営権を握って、マホーンの鉄道建設者としての役割が終わった。
アトランティック・ミシシッピ・アンド・オハイオ鉄道は競売に掛けられ、ペンシルバニア鉄道と提携していたフィラデルフィアの個人銀行会社であるE.W.クラーク(E.W.Clark)によって買収された。E.W.クラークは、ポトマック川から峡谷をたどって建設中で、南部への接続を欲していたシェナンドー・バレー鉄道(Shenandoah Valley Railroad)を保有していた。アトランティック・ミシシッピ・アンド・オハイオ鉄道は、おそらくは、ノーフォークの住民が1850年代に申請した鉄道免許から名前を取られてノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道と改称した。鉄道業界における経営は失ったが、マホーンはバージニア州の政界では相変わらず活躍しており、調整党(Readjuster Party)の党首となった。そのため、彼は州がアトランティック・ミシシッピ・アンド・オハイオ鉄道の売却で得た収益の一部を、彼のピーターズバーグの住居近くの共同体のために使わせるように取り計らうことができた。これには現在バージニア州立大学(Virginia State University)となった大学や現在セントラル・ステート・ホスピタルとなった精神保健施設を設立する基金を含んでいる。マホーンは、ピーターズバーグのウィリアム・キャメロン(William E. Cameron)のバージニア州知事選挙への段取りをつけ、また彼自身も後にアメリカ合衆国上院議員を1期務めている。彼はワシントンD.C.で1895年にひどい脳梗塞に襲われて直後に亡くなった。オテリアは1911年に亡くなるまでピーターズバーグで暮らした。 ノーフォーク・アンド・ウェスタン鉄道が設立された1881年5月、ジョージ・F・タイラー(George F. Tyler)が社長に任命された。土木技術者でクラーク社に協力していたフレデリック・J・キンボール(Frederick J. Kimball
キンボール社長時代とオハイオへの拡張