ノートン_(オートバイ)
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ノートン・モーターサイクル
Norton Motorcycles (UK) Ltd業種オートバイ
設立
1898年
創業者ジェームズ・ランズダウン・ノートン 
本社イギリス,ドニントン・パーク
主要人物スチュワート・ガーナー
ウェブサイト ⇒www.nortonmotorcycles.com
マン島仕様ノートン、1937年

ノートン・モーターサイクル(Norton Motorcycle Company)は、イギリスオートバイ製造会社(メーカー)。1898年に設立された。1902年まではエンジンを外部から購入しオートバイを製造していたが、1908年には内製を開始。以後、長年にわたり単気筒車両を製造し続けた。ノートンはモータースポーツ界に高性能エンジンを提供し続けた、イギリスのオートバイ史上に栄誉ある名を刻んだ企業である。経営不振などによる何度もの倒産や合併・解散を経て、2020年4月にインドTVSモーター傘下に入った。

1948年からは二気筒エンジンに主力を移し、この伝統は1970年代に発売された500?850ccの排気量の『ドミネーター』、650ccの『アトラス』や『コマンド』ブランドに継承され、当時の高級車としての評判を集めた。また「ノートン・フェザーベッド」や「アイソラスティック・フレーム」、ロータリーエンジンなどの革新的技術を開発・投入したオートバイを世に送り出した事でも知られる。
歴史
創業

ノートンは、1898年にバーミンガムのジェームズ・ランズダウン・ノートン(英語版)によって設立された。当初は自転車メーカーであったが1902年1.5馬力のエンジンを積んだオートバイ一号車を製造しオートバイ製造に参入した。その後もフランススイスからエンジンを調達してオートバイの製造を続け、1907年にはプジョーから購入した726ccV2サイドバルブエンジンを搭載したオートバイで(新競技方式での)第1回マン島TTレース2気筒クラスを制した。1908年には自社製726ccV2エンジンを製造している。マン島TTレースでは以後戦時中を挟んで1954年までの間に通算10勝を挙げた。ジェームス・ノートンは1925年に56歳で世を去ったが、その前年にあたる1924年にはセニアTTレースとサイドカーレースでの勝利を見届けることが出来た[1]。1927年に開発され1930年に改良が施されたシングル・カムシャフトのCS1エンジンは、1932年から第二次世界大戦勃発の影響で中断される1939年までのセニアTTで7度の優勝を飾るなど、レース界でのノートン伝説を創り上げた[2]ノートン モデル16H、1949年

単気筒エンジンとギアボックス間に隙間を設けるレイアウトは高い信頼性と良好な操作性をもたらし、一般のライダーからも高く評価された。戦時中ノートンはイギリス軍にオートバイを供給し、1937年から1945年の期間に使用されたオートバイのうち四分の一、数にして10万台以上を占めた。主なモデルは単座の『WD 16H』やサイドカー『WD Big Four』などがあった[3]
戦後

戦後、かつてノートンが誇っていた優位性は消し飛び、レース界は多気筒エンジンを擁するイタリアメーカーやイギリスのAJSなどが勃興し、熾烈な競争の渦中にあった。再開された1949年のロードレース世界選手権500ccクラスでノートンは競り負けランキング5位に終わり、チャンピオンはAJSに奪われた。

1950年、後に「ノートン・フェザーベッド」(Norton Featherbed、「ノートンの羽毛ベッド」の意)と絶賛されたマッカンドレス兄弟製の名フレームを得た伝説的な車種『マンクス・ノートン』(Manx Norton、マン島仕様ノートン)は、ジェフ・デュークジョン・サーティース、デレク・ミンターなどのライダーが操り、活躍を見せた。「ノートン・フェザーベッド」はフレームの標準となり、ノートンは栄光を取り戻した[4]

これらレースで成功したスタイルは市販カフェレーサーへ反映された。「ノートン・フェザーベッド」フレームに他社から融通を受けたエンジンを搭載した数々のオートバイは、例えばトライアンフから二気筒エンジン供給を受けて製作された名車『トリトンズ』(Tritons)など多数製造された。1952年の『ドミネーター88』(Dominator88)もまた、このフレームを用いていた。マンクス・ノートン、1954年
AMC傘下でのノートン

レースでの成功に関わらずノートンは財政難に陥り、1953年にはAMC(en)に売却された。1962年、創業以来のバーミンガム工場は閉鎖され、生産はロンドン南東のウーリッジに位置したAMCの工場に集約された。

しかし、この再編はノートンに優秀なギアボックスが提供されるという好結果をもたらし、1956年以降のモデルから搭載され始めた。この年600ccの『ドミネーター』(Dominator 99)が発表された。さらに1962年、ノートンは同ギアボックスを搭載した『マンクス・ノートン』を世に送り出した。47英馬力/6,500rpmを発生する排気量499cc単気筒ベベルギアDOHC駆動2バルブのエンジンを搭載し、車重142kgのマシンは最高速度209km/hを誇った。ボア86mm×ストローク85.6mmとボア76mm×ストローク100mmのエンジンはどちらも圧縮比11:1に設定され、アマルGPのキャブレーターとルーカス・レーシングのダイナモを備えていた[5]。価格は440ポンドで販売された。ノートンは1954年にレースから撤退し、この『マンクス・ノートン』も1963年を最後に販売中止となったが、プライベーターにとっては持って来いのベースマシンとして高く評価され、今に至るまで時々見受けられる。

1961年1月発売の『650SS』とアメリカ合衆国市場を狙い翌年に発売された『アトラス』(Atlas 750)には引き続き「ノートン・フェザーベッド」フレームが使用された。しかし単気筒よりも出力曲線がスムーズなバーティカルツイン形式のエンジンの排気量を上げると、4,500rpm前後で振動の問題が表面化した。さらに『アトラス』は非常に高価で、コスト削減も難しい状態にあった。このような中、財政的な問題が頻発していた[6]

AMC所有ブランドで『G15』モデルを共有したブランド『P11』[7]の販売が1963年から開始された。マチレス製『G85CS』フレームに、『アトラス』のエンジンとホイールやフロントフォークを搭載したモデルは、AJSからは『モデル33』シリーズとして、マチレスからは『G15』シリーズとしてそれぞれ発売され、主に輸出用とされた。このモデルは「ノートン・フェザーベッド」フレームよりも制振性には優れており、1969年まで製造販売された。これとほぼ同時期に、AMCはノートンブランドで単気筒オートバイも製造販売していた[8]
ノートン・ビリヤーズとコマンドの誕生

1960年代末のイギリス・オートバイ産業は日本車との激しい競争に晒され、斜陽を迎えていた。1966年にAMCは倒産。ノートンはマンガニーズブロンズ(en)傘下のノートン・ビリヤーズ(en)へと再編された。

優雅ではあるが操作性の悪さと振動で有名になった『アトラス750』の次期モデル設計に臨み、ノートンは対策としてエンジン変更ではなくフレームの見直しに着手し、画期的な「アイソラスティック・フレーム」[9][10]を開発した。

開発にあたりノートン・ビリヤーズは、ロールス・ロイス社からステファン・バウアー博士を招聘し、主任設計者とした。バウアー博士はモーターサイクルの開発に携わったことのない人物で、そればかりかオートバイに乗ったことすらない人物だったと言われ、それ故に既成概念にとらわれない発想や設計を可能とした。

「アイソラスティック・フレーム」は、エンジン・ミッション・スイングアームおよび後輪を一体とし、フレームとの接続にはラバーマウントを介した構造を持つ独特のもので、大排気量二気筒エンジンが生む振動のフレーム・フロントフォークそして搭乗者自身への伝達を軽減している。ラバー素材には劣化がつきまとったが、定期的なメンテナンスを怠らず激しい使用がされない限り作動に問題は生じなかった。

1969年、この「アイソラスティック・フレーム」に強力なエンジンを搭載した『コマンド』(Commando 750)が発売された。洗練されたデザインと革新的な技術に、バリエーションを取り揃えた『コマンド』は営業的には成功した[11]

もっとも、初期のコマンドのフレームにはクラックを発症するという欠陥があり、その改善にあたったのはかつてフェザーベッドフレームの製作で名を馳せたマッカンドレス兄弟社であった。

1972年1月には、『コンバット』(Combat)エンジンが発表された。これは、それまでのシングル・ベアリングから変更された並列ローラーベアリング(ころ軸受け)・クランクシャフトを備え、圧縮比10:1で65英馬力/6,500rpmを発揮した。しかし信頼性に乏しく、日本車と比較される際に目立つ欠点とされてしまった[12]ノートン・コマンドーMk3、1978年
ノートン・ビリヤーズ・トライアンフとコマンド850の登場

1972年頃、ノートン・ビリヤーズ同様、名門トライアンフを抱えるイギリスの老舗企業バーミンガム・スモール・アームズも業績悪化に直面していた。1973年にイギリス政府の肝いりで両社は合併し、ノートン・ビリヤーズ・トライアンフ(NVT)が設立された。同年4月、圧縮比8.5:1、ドイツのスーパーブレンド製ベアリングを採用した828ccの「850」エンジンが発表された。設計では発生馬力は51英馬力/6,250rpmであったが、実際の製造時にはトルク重視側にセッティングが変更となり、馬力は抑えられた[13]。このエンジンを搭載した『828ロードスター』(828Roadster)を始め、『Mark 2 Hi Rider』、『JPNレプリカ』(ジョン・プレイヤー・ノートン・レプリカ)、『Mk.2aインターステート』(Mk.2a Interstate)などが発売された。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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