ノートルダム大聖堂_(パリ)
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この項目では、パリにある大聖堂について説明しています。その他の用法については「ノートルダム大聖堂 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

パリのセーヌ河岸
フランス

パリのノートルダム大聖堂(2013年)
英名Paris, Banks of the Seine
仏名Paris, rives de la Seine
登録区分文化遺産
登録基準(@),(A),(C)
登録年1991年
公式サイト世界遺産センター(英語)
地図

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使用方法表示
シテ島東側パリ4区に位置する

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度51分11秒 東経2度20分59秒 / 北緯48.853度 東経2.3498度 / 48.853; 2.3498

パリのノートルダム大聖堂(パリのノートルダムだいせいどう、: Cathedrale Notre-Dame de Paris、ノートルダム寺院とも)は、ゴシック建築を代表する建物であり、フランスパリシテ島にあるローマ・カトリック教会大聖堂[1]。「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコ世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。

パリのノートル・ダム大聖堂の正面に向かって左側のポルタイユ(正面)には、聖母マリアの聖母被昇天の主題が取り上げられている。中段では聖母マリアが地上における生を終える場面が描かれ、上段でキリストから祝福を授けられている聖母マリアが鎮座している。キリストを中心にして天使や聖人たちが描かれており、過去、未来、未来という崩れた構成となっている。

2019年4月15日夜(現地時間)に大規模火災が発生し尖塔などを焼失した[2][3]。翌日16日午前に消火活動により鎮火した[4]。同日にバチカンフランシスコ教皇も「ローマ・カトリック教徒およびパリ市民のために祈っている」と声明発表している[5]
建物東側を支えるバットレス(2007年)
外観

ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され[1]1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年

全長128m、幅48m、高さ91m、内部の身廊の天井高32.50mと、それまでにない壮大なスケールの大聖堂が完成した。全体の色合いから、白い貴婦人とも称されている[6]

1789年に始まったフランス革命により他の教会同様にノートルダム大聖堂も襲撃を受け、大聖堂を飾っていた歴代の王の彫像が破壊されて埋められた。この彫像群は1977年に工事の際偶然発見され、現在では近くにあるクリュニー中世美術館に展示されている ⇒[1]

ファサードを装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。1831年ヴィクトル・ユーゴーの小説『ノートルダム・ド・パリ』(「ノートルダムのせむし男」)の舞台になった。

着工当初は、世はいまだロマネスク様式が優勢だったので、ファサードの一部、すなわち、正面向かって右側のポルタイユ(主要入口)にロマネスク的な痕跡があって、半円形アーチをポインテッド・アーチにむりやり改造したような跡がある。また、身廊側廊を隔てるアーケードを支える柱として、一部にロマネスク的な太い一本の円柱となっている部分が見られる。これらは着工してまもなく建てられたもので、のちに建造されたものでは、複数の円柱を組み合わせたピア(束ね柱)の形式になっている。

一方、ヴォールトを下からみると、アーチが×印状に交差する四分ヴォールトだけではなく、中央を横切るアーチがもう1つ加わり*印状になったものが多用されている。これは六分ヴォールトと呼ばれるもので、初期のゴシック建築によくみられた。中期以降のゴシックではより簡素な四分ヴォールトを連ねた構造が採用されることが多い。

以上のように、パリのノートル・ダム司教座聖堂は建築様式の観点からは、ロマネスク様式のテイストを一部に残した初期ゴシック建築の傑作といえる。一般に、ゴシック聖堂は完成までに数十年から数百年を要するため、各時代ごとに微妙に異なる様式が混在している場合が多い。

それも、基本的に左右対称形を志向しながら、左右で建造年代が違うために細かいところでは微妙に異なる場合もある。ポルタイユやステンド・グラスに何が描かれているのかという視点である。ゴシック建築は彫刻やステンド・グラスを駆使して、聖書や聖人伝のさまざまなエピソードを表現している。パリのノートル・ダム大聖堂では、とりわけ、3つの薔薇窓のステンド・グラスと正面ファサードの3つのポルタイユの上のレリーフが重要である。

塔上部の回廊の手すりには、キマイラ(シメール)の彫刻が魔除けとして据え付けられている[7]
壁面構成

下方から、大アーケードトリビューン(階上廊)、高窓の3層構造となっている。水平的分割線が見られず、分断されることなく上昇する小円柱群が目立ち、垂直線が強調されている。初期ゴシック建築では、4層式(大アーケード、トリビューン、側廊側の上部通路トリフォリウム、高窓)が一般的であった。そのため、ノートルダム大聖堂も創建当初は4層構成にされており、トリビューンと高窓の間にもう一つの層があった。しかし、ノートルダム大聖堂の場合、左右の側廊が二重で五廊式バシリカ形式であるため[8]、中央身廊部に十分な光が入ってこなかった。そのため13世紀初め、外光をより取り入れるために、高窓部分を拡張し、3層構成に改造された。こうして、13世紀の大聖堂では例外的に、トリビューンを残し、採光のため高窓を下の層まで大きく伸ばし中間層が取り除かれた構造となった。側廊が二重にされ、またトリビューンもあえて残されたのは、多くの人びとを収容したいという思いからだと考えられている。実際に、大聖堂内には9000人をも収容でき[9]、トリビューンには1500人もの人々が昇れるようになっている。
象徴的建造物


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