ノート:応永の外寇
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倭寇との関係について

概略歳末部の「応永外寇以前の倭寇は見られず?」ですが、応永の外寇の契機となったのはいわゆる前期倭寇ですよね。通俗本で読んだ知識しかありませんが、対馬が前期倭寇の根拠地、経由地であったとは、必ず触れられている点であります。倭寇の人的構成は実際には多様ですが、まだまだ=日本人という常識があるから、「しかし」で始まる一文が追加されたと思えるのですが、取り敢えず外寇以前の倭寇現象は確実に存在したと思われます。

挙げられている清代、李朝後期の学者の見解は知らないのですが、これは「前期倭寇」を指しているのでしょうか?検索してみると、 ⇒ここ当たりますが・・倭寇の原因については元寇の報復というのも聞きますが、もっと広域かつ長期にわたる現象ですので、ここで触れる必要もないと思うのですけど。それと、「対馬の日」騒動は事件の後日譚ではないわけですし、違うような。「影響」とかの方が適当でしょうか?--でここ 2005年12月24日 (土) 09:08 (UTC)[返信]問題提起しても反応が無いですね。読み返してみても、応永外寇以前の倭寇は見られず?の一文はおかしいように思えます。「報復」は元寇に対してのアクションであるはずなのですが、ここだけ読むと、応永外寇への報復で倭寇が活発化したような印象持っちゃいますよね。李朝は倭寇懐柔策も行いつつ、倭寇は収束していったように記憶しているのですが。--でここ 2006年6月22日 (木) 02:44 (UTC)[返信]
出典を。

「応永の韓寇、または応永の朝寇と呼ぶべき」という議論は聞いた事がありませんでした。独立節として呼称について扱うのであれば出典を明記ください。--Redpepper 2007年8月16日 (木) 10:09 (UTC)[返信]

Redpepperさんによる疑問提示後もしばらく、出典が明記されない状態が続いておりましたので、ひとまず当該部分をコメントアウトさせて頂きました。--60.42.46.165 2007年10月6日 (土) 03:44 (UTC)[返信]
“事件の推移”節の出典明記タグの削除

全く編集歴のないIPユーザ(58.98.195.170)によって”事件の推移”節全体に対して貼られた出典明記タグを削除しました。該当節内には適宜出典書名が挙げられており、箇所を限定しないこのようなタグ貼りは不適切と考えます。 Jinzuu 2009年11月23日 (月) 09:24 (UTC)[返信]
出典のついた記述が出典なく削除されましたのでリバートしました

すでに出典つき記述があってそれと食い違う記述をしたい場合は、両論併記か、旧記述を削除するなら新記述の方が説得力がある旨明らかでなければならないのではなかろうか。--プリズム11会話) 2015年3月25日 (水) 02:59 (UTC)[返信]
戦闘の経緯

戦闘の経緯の項目に対する編集合戦が続いおり、見ていて気持ちの良いものではありません。そもそも戦闘に関して記載した同時代記録は『朝鮮王朝実録』しかないと思われますし、実際本文の記述もほとんど朝鮮王朝実録に従っていますから、本文中に「朝鮮王朝実録によると」と明記した上でその内容を記するしかないのではないでしょうか。『宗氏家譜』は300年も後のものですし、これも本文中に「宗氏家譜によると」と明記の上で記載するのが良いのではないかと。朝鮮王朝実録の内容がどこまで信頼できるかと言う点はもちろんありますが、それは研究者による二次資料を参考にするべきでしょう。また、佐伯弘次氏の2010年の論文では、「応永の外寇に関しては未だに中村栄孝氏の研究が定説」だそうですので、全体の内容としてはまずはそれに準じるべきではないかと。--Hkusano会話) 2015年3月28日 (土) 01:34 (UTC)[返信]出典の明記はごもっともで、その通りなのですが、朝鮮王朝実録について誤解されているところがあると思います。太宗実録など実録はほとんど虚飾誇張なく簡潔に書かれていて、決して朝鮮側に有利には書いてはありません。朝鮮側の史料なら朝鮮に有利に書くだろうと現代人は思うわけですが、そもそも実録は一般公開する予定で書かれてない秘史であり、反省内省を目的とした記録で、儒者的思想から後世を”諫める”という動機で記録されています。よってむしろ失敗とか敗北についての言及が多く、処罰された人についても細かく名前が書かれています。戦闘についても、村を焼いたりしたものの、伏兵にあって多くの戦死者を出したと書いてあって、その後は外交で修好しようとしたことをそのまま書いてます。別に日韓で記録の論争があるというわけではないです。現状の編集合戦はただの荒らしです・・・。また日本側の同時代史料としては看聞日記などがあるそうですが、当時の日本人はこれを蒙古の三度目の襲撃と考えたのでこっちの方が話に混乱があります。参考にどうぞ。(朝鮮史編修会 編『 ⇒国立国会図書館デジタルコレクション 朝鮮史. 第4編 第2巻』岩波書店、1935年。 ⇒http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114649/160 国立国会図書館デジタルコレクション。?三浦周行「 ⇒国立国会図書館デジタルコレクション 應永の外寇」『日本史の研究. 第〔1〕輯』岩波書店、1930年。 ⇒http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1161401/417 国立国会図書館デジタルコレクション。?) ??以上の署名の無いコメントは、Quark Logoノート履歴)さんが 2015年3月28日 (土) 02:57 (UTC) に投稿したものです(Itasuke(会話)による付記)。[返信]ありがとうございます。朝鮮王朝実録はオンラインで読めるので、該当しそうな箇所は一応目を通しています。私がちょっと疑問を持った点は、太宗と宗貞盛が共に「暴風の季節だから対馬に長く留まるのは良くない」と述べたとされているところ、にも関わらず65日分という中途半端な食料を準備して遠征軍を派遣している、九州探題に対馬攻撃を伝えたとあるが日本側にそのような記録は無い、と言ったあたりで、損害などは別として太宗を有能な王であるようにみせる脚色はあるのではないか、と感じました。勝敗に関しては韓国語版のWikipediaでも(出典は書いてありませんが)朝鮮側は明確な勝利を得ることは出来なかった、とありますので実録から大勝利と読み取ることは出来ないのでしょうね。また太田弘毅氏の著作でも「日本側は勝利と認識していた」とありますし。ところで「実録は一般公開する予定で書かれてない秘史」なのでしょうか。この戦闘で戦死した朝鮮の将軍の子孫が書いたものがオンラインで読めたのですが、明らかに実録から書き写した部分がありました。数十年後にかかれたものではありますが、糠岳の戦闘に破れた後朝鮮軍は総崩れになり、艦船も焼かれて何隻か沈没したとも書いてありました。もちろん故人をたたえるものなので、そのような中で奮戦したというのが主旨であるため、損害が誇張されている可能性もありますが。--Hkusano会話) 2015年3月28日 (土) 05:18 (UTC)[返信]
「宗氏は朝鮮の外臣となった」の出典をご提示ください

利用者:Norikomimasukaさんが書かれた「この外征以降、宗氏は朝鮮の外臣となり朝貢を行うようになった。」[1]につきましてですが、どのような根拠によるものでしょうか。たとえば、平凡社のマイペディアでは「室町時代応永の外寇を退け,朝鮮貿易を独占する」といった記載はありますが、「宗氏は朝鮮の外臣となった」という記述を行っている書籍は見つけることができませんでした。お手数ですが、ご教示いただけませんでしょうか。


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