ノート:謀反
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長屋王、源頼政は微妙だろうね。長屋王はクーデータで殺されて、謀反人の汚名を着せられただけだし、源頼政にとって平清盛は主ではなく、平家追討を命じる以仁王の令旨も持っていた訳だし。61.210.161.11 2005年10月17日 (月) 16:03 (UTC)[返信]

「著名な謀反人」よりは、「謀反人として処刑された著名人」のほうがよいような気がするのですが、どうでしょう。

謀反人の定義があいまいすぎる事はさておいて、最近個人判断でいくつかの歴史上の人物を削除している方がいるようです。少なくとも織田信長は織田本家に対して謀反を起こしていますし、足利尊氏は特に戦前において後醍醐天皇に謀反を起こした逆賊と評されています(それが元で中島久万吉は国務大臣を辞しています。)そして徳川家康に関しては本人がブレーンに主家を滅ぼす事の大義名分を検討するように命令していた事実もあり、少なくとも謀反人のそしりを受ける事を恐れたとする歴史的事実があります。大久保長安も扱いは家康により謀反人とされていた事実もあります。みなさまいかがお考えでしょうか?--スワンベース会話) 2013年5月19日 (日) 17:57 (UTC)[返信]

定義も曖昧なら、いつの時代の判断をもって謀反人とするかも曖昧になりますね。豊臣秀吉でさえ、信長亡き後の織田家中の統括する大義を得るために奉じていた織田秀信を差し置いて自らが上に立った謀反人という言説があるくらいですから、少なくとも当時の社会や政権下で謀反人ならば謀反人、謀反人とされていなければ謀反人でないともいえるかと思います。例えば、後醍醐天皇などは、自身が即位に関して当時として異例なことをしていた上に、身内や公家社会の支持も得られておらず、そもそもが忠義を捧げるに値しない・捧げなくても不忠にはあたらない不徳の君主という評価であった時代の方が長いのです。これは南朝贔屓の史学者であっても同じで、スワンベースさんの言われる中島久万吉辞任事件のあったような明治時代から戦前の時期の方がイレギュラーといえるでしょう。また日本では近世入るまで譜代や一門以外の家臣や家来は、状況が許せば主を替えることは珍しいことでも悪いことでもありませんでしたし、日本に限れば歴史上において、戦を起こす、または対するにあたって、自分に理があるという大義名分を検討・形成するというのは事の大小に関わらず大方の戦争当事者双方(結果的に勝者であろうと敗者であろうと)がしていることですので、した形跡のない当事者の方が稀でしょう。従って対象の滅亡を意図した上で大義名分を検討した事実だけその点では認定するには不適当ですし、その検討した大義名分が立ち、当時の社会に受け入れられたのなら謀反でないことにもなります。だからこそ各時代とも大義名分が立つように検討し根回しするわけです。61.192.110.110さんの挙げられた長屋王のように当時はそういうことに政権からされたとしても後年に疑問を呈される例もあり、「謀反人として処刑・滅亡した著名人」に絞った方が適当で中立性のある分類かと思いますが、そもそもリスト化するよりは以上のような事情も含め、記事本文中に学術専門家の研究成果としての出典をもって解説された上で組み込むことが、wikipediaとしての理想の記事の形かと思いますで、リスト自体を除去しても良いのではないでしょうか。譲って専門家による学術的な疑義や時代による評価のブレのある著名人は省くか、解説文込みにするかでしょう。--ジャムリン会話) 2013年5月19日 (日) 20:09 (UTC)[返信]


梶原景時 梶原景時の変
畠山重忠 畠山重忠の乱
足利尊氏 足利尊氏を参照。後醍醐天皇に兵を挙げる
織田信長 織田信長を参照。主君織田信友を殺害。主君斯波義銀に対し追放。主君足利義昭を追放。
徳川家康 大坂の陣を参照。主君豊臣秀頼を殺害、主家を根絶やし。
大久保長安 大久保長安事件を参照。
本多正純 宇都宮城釣天井事件を参照。

ジャムリンさんが削除した人物は該当しない人物との事ですが、これだけの内容があって該当しないとは正直思えません。また、当時の社会に受け入れられたのなら謀反ではないというご意見には賛同しかねます。社会に受け入れられているかどうかの定義もあいまいである上、確認も難しいからです。明智光秀とて成功していれば、強権をもって謀反の声を黙らせ、これほどまでに謀反人のイメージがつく事もなかったでしょう。徳川家康も関が原の戦いや大坂の陣で敗北していれば稀代の逆賊呼ばわりされていると思います。成功、失敗に関わらず、彼らが主君を裏切って自分が上に立った、あるいは立とうとした事実に変化はありません。当時の定義どおり、主君に対して武力行使すれば謀反で良いのではないでしょうか。しかしながら、たしかに大久保長安、本田正純のように謀反の行為そのものに疑問符がつく人物もいるので、このような人物をリストに入れておくのは正直疑問がないわけではないですが、項目が「謀反人とされた日本の主な著名人」なので事の真相が不明でも、主君側が謀反人としていれば謀反人でも許容範囲だとは思います。あくまで謀反人とされた、ですから。一方、リスト自体を除去しても良いのではないでしょうか。という意見に反対しません。謀反を説明するためのページであって誰が謀反人かという事を説明するページではないのが理由です。他の方の意見を聞きたいですね。--スワンベース会話) 2013年5月20日 (月) 16:00 (UTC)[返信]

討たれたり処断された場合に限っても、畠山重忠なども討たれた直後にはもう謀反人とされたことが謀略であって、謀略主とされている人物(北条時政)が失脚し、世論的な名誉回復が図られていたりしますので、更に判断も難しくなるのではないでしょうか。鎌倉時代までは一門以外の主従関係は個人対個人の契約的側面が強く、梶原景時が名目として謀反とされたもとの揉め事が故人(頼朝)の方に忠節の方に重きを置くことが、現君主(頼家)に対する不忠になるか否かというところから始まっていたという逸話すらありまして、同じく逸話では畠山重忠などは乱以前に「謀反もしない者と思われているのなら屈辱」と発言したとも伝わっているくらいです。このように同じ謀反といっても時代時代の価値観のふれ幅がありすぎです。この二件にしても、討伐の名目は謀反行為であっても、主君に対する謀反というより北条氏始めとする他の御家人との勢力争いの結果といった面が強いと思います。鎌倉時代はまだ武士階級に謀反(八虐)という概念のベースになる「儒教」が思想・行動理念として根付いてませんし、根付かせることで内乱の発生を抑えることに成功したのは徳川氏による江戸幕府、それも初期を過ぎた頃になってからとも言われています。時期としては一過性に過ぎなかった皇国史観の色濃い編纂物に触れたあとですと感覚的に違和感があるかも知れませんが、足利尊氏や徳川家康などにしても「忠に値しない(天下を治めるだけの徳や能力のない)主君は主君にあらず、よって従わなくても良い」という儒教的にいえば間違っていない行動を取っているという解釈や研究もあります。また武力行使という条件からいえば、大久保長安や本多正純や長屋王も微妙になります。

私の除去の直前に他の方のによる除去された項目で言いますと豊臣秀吉 主君の子(織田信孝)と家中の主権を争って討ち、母側室にいたるまで串刺し。自ら奉じた嫡流(三法師)を退けて上に取って代わる。

リスト自体の除去が良いとは思いますが、それまではこちらも除去のままでいいと思います。他の方の意見を求めるのなら、コメント依頼という方法もありますので提出してはいかがでしょうか。--ジャムリン会話) 2013年5月20日 (月) 17:47 (UTC)[返信]


コメント依頼をするまでの話でもないかな、と今は考えています。興味があって検索してきた方なら加筆して頂けるかもしれません。あくまで謀反の項目であって謀反人を紹介するページではないので、私も誰からも異論がなければ削除で良いとは思います。二週間ほど待って反応がなければ削除しませんか?異論があればリバートされるかノートに書かれることになるでしょう。また豊臣秀吉が織田秀信に行った行為は謀反というよりは簒奪ではないでしょうか。強制的に奪った形跡は見られないからです。信孝に対して行ったのは謀反とは言えないでしょう。信孝は主筋とはいえ、秀吉側には信雄もおりますし、名目上、秀吉の主人は秀信でありますし、織田家を根絶やしにしたわけではないので。

記事の充実が望ましいと考えられる方へ:謀反とは家臣が主人を暗殺、武力行使で死に追いやる、武力で強制的に立場を追いやる行為と定義した上で、「謀反行為を行った人物」「謀反を疑われた人物」に別けてはいかがでしょう。--スワンベース会話) 2013年5月23日 (木) 15:06 (UTC)[返信] では反対がなければリストは除去する方向でいきましょう。スワンベースさんの定義にしても、まず出典が必要ですし、疑われたか確定的か定まらない人物も多いと思いますので、提案の分節には賛成できません。そして記事内のカテゴリ分けによる単なるリストアップは記事の充実ではありませんので、ピックアップされた人物は当時どのような状況と過程と経て謀反人と処断され、認識または受け入れられていったか、どう歴史上の位置づけられたかを総括的な流れの中で出典を根拠として解説されてゆくことが望ましいでしょう。判りやすくいえば、どの研究者が適正な根拠をもって謀反人と判断されているかを提示しなければなりません。合戦の結果などによって「例えばAが勝っていれば」などという仮定の視点は架空戦記でもないので全く必要ありません。藤原頼長などは保元の乱に勝っていれば新たな勅を引き出すことで取り消せたでしょうが、乱の前には武力行使以前に既に「謀反人」として没官されています。むしろこのことが武力行使せざるを得ない状況に追い込まれたともいえるでしょう。これも例えば豊臣秀頼の場合も有効な討伐命令を出せる立場であれば、対抗対象は謀反と起こしたといえるかも知れませんが、武官として最高職であり、幕府開府の資格を有する近衛大将にも征夷以外の大将軍にも任官せぬまま中納言となっており、官位としても既に対抗者が上位(家康)か同等(秀忠)なので、謀反になりようがありません。--ジャムリン会話) 2013年5月23日 (木) 16:06 (UTC)[返信]

官位が上だから謀反にならないというのは一般的な考えではないでしょう。それこそ出典がいる話ですよ。別の項にもある天皇の謀反という表現もあるくらいですから、官位は関係ないでしょう。当時の政治的優位に関係なく臣下の礼を取った者が主従関係を解消しないまま、主人とされる人物に武力行使あるいは武力で脅せば形式的には謀反と言っているだけです。徳川家康の例で考えると、豊臣秀頼から独立出奔した証拠は見られません(後世の人が勝手に幕府開府でそうみなしているだけです)徳川家康の行動を検証すればわかるはずです。主従関係を解消していれば、当の徳川家康が林羅山らと湯武放伐論まで持ち出して大坂方を攻める事に色々悩む必要もないでしょう。しかしそれは現実に行われている事であって、この徳川家康の行動そのものが謀反と判断できる根拠なんですよ。

あと提案の件はたしかに混乱の元になると思うので撤回します。この記事は謀反の説明であって謀反人ではありませんし、別のベクトル(たとえばクーデターや反乱や下克上との関連性を記載するとか)で充実したほうが良いでしょうね。--スワンベース会話) 2013年5月23日 (木) 17:23 (UTC)[返信] wikipediaでいう「一般的」とは専門やアカデミックな世界における「一般」です。それは出典足りえる基準を示した「Wikipedia:信頼できる情報源#歴史」でK-12水準の教科書を避けるようにという記述からもお判りのことと思います。歴史分野では逸話俗説的なものと、専門的な史料をベースにした研究による説を混濁することなく分けて判断するがよろしいでしょう。このような項目は一般的観念的な理解ではなく、学術的に導かれた実態的な系統立った研究結果を元に一般に向けて解説する分野です。一般的なことと思うことでも何故一般的なのか一般的になったのかという研究結果が必要です。それを考えるまで無いとか判断を勝手にするのは独自研究に過ぎません。


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