ノート:石田三成
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過去の議論

2006年10月15日 (日) 13:37; 218.142.136.18 (会話) による版

意見よりだいぶ時が経過していますので、あまり意味はないかもしれませんが気になるのでひとつ。   61.198.251.225さんの   「三成を悪人とする人は徳川方についた人たちのプロパガンダにまんまと乗せられているということです。」という考えはあまりにも幼稚です。    この書き方では家康を評価する考え方を全否定することになりかねません。これでは批判すべき「三成=悪人」説がそのまま   「家康=悪人」説になるだけで、なんの根本解決にもならないでしょう。   「家康を悪人とする人は官軍(明治)についた人たちのプロパガンダにまんまと乗せられているということです。」と同じレヴェルです  

そういう解釈が幼稚です。私は三成は悪人ではないと主張していますが、同時に家康が悪人だとも思っていません。家康は秀吉より格上だったのに彼に臣従させられた人であって、彼が秀吉の死後天下を取ろうとしても当然だと思うからです。ただ、秀吉の子飼いだったにもかかわらず豊臣の天下を家康に売り渡した加藤清正や福島正則に対しては恩知らずだと思っていますが。どちらかが善でどちらかが悪という単純な考えをやめていただきたいですね。

申し訳ありません。それ以前のノートに書いてあったことがなくなってしまいました。うまく復活させることが出来ないので、上の分まで含めて載せる形で編集し直していただけないでしょうか。これは手順を間違ってしまったためで悪意ではありません。たまたま見つけたのでやっときましたよ。--Kangoshiyouichi 2007年9月15日 (土) 05:42 (UTC)[返信]光成も家康も、どちらも、自分が正しいと信じた方向に進んだだけ。善か悪かは、どうやっても、単純に決めきれることではない。そういう考えは、自分の中だけに、とどめておいてほしいですね。--2400:2653:88A0:4A00:804B:D409:413:AC60 2023年9月9日 (土) 02:57 (UTC)[返信]
過去の議論

「常山紀談」で三成が否定的に書かれているとされているが、著者について調べるべきである。著者の湯浅常山は岡山藩士で、直言や諫言をして藩を追放された人物である。また同時代の人物などからもその見識・作品を高く評価されており、名誉欲・私欲がほとんど無かったとされる人物である。三成に関して否定的とあるが、同じように徳川家に逆らった直江兼続などは「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」と兼続を高く評価しており、本当に「ただ江戸時代ゆえに三成は不当に描かれている」というべきなどであろうか?--210.131.156.169 2011年7月2日 (土) 05:01 (UTC)[返信]恐らくそうです。もし、徳川ではなく、豊臣の天下が続いていたのなら、逆に、光成は、そのあと、英雄視されていたと思います。--2400:2653:88A0:4A00:804B:D409:413:AC60 2023年9月9日 (土) 03:00 (UTC)[返信]
遺構か遺溝か

遺構の中に遺溝が含まれ、本文の中では遺溝が適切だと思われますが、いかがでしょうか。--Tiyoringo 2007年1月29日 (月) 23:35 (UTC)[返信]

その通りだと思います。また、一部のIPアドレスユーザーによって勝手に私が一次資料に基づいて書いた投稿を削除する行動(三成だけでなく、それに関連する高台院、淀殿、真田昌幸など多数の項目で)が見られます。内容に関する議論ならこのノートなどでいくらでも受けて立ちますので、そのような行動をやめるようお願いします。。--利用者:歴史研究家この際遺構か遺溝かにはさしてこだわりません。ただ歴史研究家さんにおかれましては一次史料に基づいている場合、出典をお示しいただくこと(複数本伝わる場合にはその所蔵も)、それからその解釈自体の背景となる研究資料をご呈示いただいたほうが議論・編集にあたっても有益かと存じます。単に一次史料にある、というだけでは歴史研究家さんの独自研究扱いされてしまいますので、ぜひよろしくお願いいたします。--Kotoito 2007年1月30日 (火) 23:03 (UTC)[返信]

一次史料としては「梵瞬日記」、「藩翰譜」、「養徳院石河系図」、「石河系図」、「河副系図」、「津軽藩採取文書」、「杉山系図」、「佐和山落城記」、「於茶阿文書」など多数ですが、やはり一番は「梵瞬日記」でしょう。古文書を直接読むのは難しいと思いますし、私自身も全部原典を読んだわけではありませんが、「梵瞬日記」などの一部は国立国会図書館で読むことができます。また、それらを研究してまとめたものとしては、白川亨さんの「石田三成とその一族」、「石田三成の生涯」の2冊(新人物往来社)がお奨めです。私もこれらを読み、原典の一部を読んでいくと、どうしても「北政所+武断派vs淀殿+文治派」という通説に多くの矛盾が生じますし、むしろ北政所と三成の親密さを示す関係が多く、逆に三成と淀殿のあいだに何らかの縁故が一つもないというのはおかしいと思いました。また、蒲生氏郷を毒殺したとか、豊臣秀次を陥れたとか、蒲生騒動を操っていたというのに至っては一次資料に頼らなくても彼らの旧臣の多くが三成の家臣となり、関ヶ原や佐和山城で死んでいるという事実だけでもおかしいと思います。豊臣家の滅亡は三成と淀殿がすべて悪いという形にして家康や大名たちの立場を正当化させたと見るべきではないでしょうか。。--利用者:歴史研究家ええと私が申し上げたのは、それぞれの事実をどの研究によっているかを脚注などを使って本文中で示していただく必要がある、ということです。どの事実をどの研究の何ページによったのか、たとえば白川さんの分厚い本の何ページ目にあるのか、それがわかることが検証可能性です。この際、何が正しいかではなく、それが正しいかどうかをみんなで客観的に検証できるかどうかが重要なのです。Wikipediaの歴史記事は基本的にはほとんどこの検証可能性を満たしていませんが、いい機会なので徐々に出典をつけながら作業してゆく、という基本が共有されるといいな、と思っています。--Kotoito 2007年2月5日 (月) 05:52 (UTC)[返信]

了解しました。私が書き込んだ分については、量(項目)が多いので少々時間がかかりますが、できるだけそのようにいたします。--利用者:歴史研究家

歴史研究家さんの書き込みは根拠もはっきり明記されていますので、一歴史ファンからすると通説からは真逆ではありますが、説得力があるしわかりやすくていいと思います。ただ、明快な根拠を書いても他の項目で意地になって削除している人がいるぐらいですから、詳しく書かなくてもいいと思いますよ。--211.122.123.48 2007年2月20日 (火) 07:41 (UTC)[返信]


三成は三男だそうですね。何故ここでは次男なんでしょうか?三成の兄・正澄も同じWikiに次男と書かれており、正継は2人の次男を持つのでしょうか?--以上の署名のないコメントは、125.205.187.94(会話/Whois)さんが 2007年7月27日 (金) 01:45 (UTC) に投稿したものです(Greatupperによる付記)。[返信]
保護解除にむけて

編集合戦により保護いたしました。ノートでの議論のない一方的なテクスト除去は非常に残念です。しかしながら一方で以前に指摘したとおり、歴史研究家さんが書かれた文章の多くの点で出典が示されていない、ということも編集合戦に至った要因のひとつともなっているように思えます。ですので、以前に書きましたとおり、「AはBである」といったときに、その一文ごとに典拠をつけるくらいの綿密さが、このような編集合戦になりやすい項目では求められますし、そうすればかなり荒れにくくもなると思います。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記する、en:Wikipedia:Reliable sources、Wikipedia:脚注などを参考にされるとよいとおもいます。また出典はできれば一次資料だけではなく研究も挙げられたほうがが好ましいように思われます。単に一次資料のみをあげた場合、その解釈が独自の研究である可能性があるからです。--Kotoito 2007年2月21日 (水) 11:27 (UTC)[返信]出典をいちいち挙げると文章が冗長になるという批判を受けております。綿密さを求められる一方で簡潔さを求められたのでは困ります。特に、俗説と正反対の事実を指摘しているのですから、結論だけを書くという簡潔な書き方では誤解を招くと思い、説明と出典を書いたのですがそれを非難されたのでは。管理者の方の意思を統一していただかないと困ります。書いても荒らしによってすぐに削除されてしまい、それを管理者側が保護もしてくれないのでは時間と労力を割いて書く意味がありません。kotoitoさんの言うとおりに、試しに津軽為信の項で出典を明らかにしましたが、やっぱりすぐに削除されてしまいました。こういう事態に対する保護がまず先ではないでしょうか。--歴史研究家 2007年2月22日 (木) 00:00 (UTC)[返信]出典は挙げてください。検証可能性の担保責任は加筆した側にあります。津軽為信の項拝見しましたが、文献を示す形式が十分に整っていないことと、本文中に書いてしまったことが冗長といわれていた原因でしょう。出典注を使ってください。第二に、Wikipediaは正しさを争う場所ではないということもご理解いただきたいと思います。歴史研究家さんもご存じの通り、歴史学的知見は史料の発見などでそれなりに変化してゆきます。ですので今現在の定説に近い主要説を書いたうえで、これも対する説とその根拠を客観的に書いてください。--Kotoito 2007年2月22日 (木) 02:49 (UTC)[返信]それはkotoitoさんだけの考えではないでしょうか。少なくとも他の項目においてそのように出典がいちいち全部書いてあるわけではないでしょう。なんで私だけがそれを書く必要を言われなければならないのでしょうか。文献を示す形式が十分に整っていないとはどういうことですか。担保責任は承知していますが、すぐに削除されてしまうのでは書く意味がないではありませんか。だからこそ勝手に削除できないようにするのが先だとお願いしているのです。それとも、私が出典まできちんと書けば、kotoitoさんが責任を持って削除を防いでくれるのでしょうか。誰が責任を持って私の書き込みを守ってくれるのですか。その確認をまずさせてください。管理者なり、kotoitoさんなりが責任を持って守ると明言するのなら、その通りに書きます。--歴史研究家 2007年2月22日 (木) 04:10 (UTC)[返信]以前にも申し上げましたが、まさに歴史研究家さんのおっしゃるとおり、Wikipediaにおけるさまざまな項目で出典が不足しており検証可能性が担保されていない状況にあります。したがって、他の項目も本項目同様、突然の記述削除などの危険性に常にさらされておりますが、そうはなっていないのは保護によるものというより、それほど目を引かない、すなわちそれほど論争的ではないことによるものと思われます。本項ではすでに編集合戦が惹起されてしまいました。であるならばこそ、出典なども示したうえで堅実な記述をしてゆけば、このような編集合戦や保護のような不毛なことがおこりにくくなるだろうという意図で申し上げております。Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自の調査などの点で問題がなければ、コミュニティも管理者として私も歴史研究家さんの記述を残す方向で可能な限りの努力を惜しまないでしょうし、そもそもばっさり削除しにくくなるものと思われます。これは歴史研究家さんに悪意を持って申し上げていることではなく、むしろ編集合戦となってしまった以上、ここで内容の充実をはかり、安易な荒らしをしにくい環境を形成するためとご理解ください。最後に形式の問題ですが、津軽為信の項では「白川亨著「石田三成の生涯」第二章十項「近世大名津軽家存続の背景と石田三成」、同じく「石田三成とその一族」第二章四項「杉山源吾の足跡」など参照」とお書きになっておりますが、出版社と出版年が抜けております。Wikipedia:出典を明記する#出典の書き方(和書)などをご参照ください。追伸となりますが、同書、私も歴史研究家さんに触発され一読しました。新人物往来社の出版はかなり幅があって無限定に参考資料とするのははばかられるのですが、同書は方法論的にもかなり妥当で参照に耐えうるように思いました。もちろん私は専門外なので見落としもあるかもしれませんが。--Kotoito 2007年2月22日 (木) 05:31 (UTC)[返信]>出典をいちいち挙げると文章が冗長になるという批判を受けております。


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