ノート:民族
[Wikipedia|▼Menu]

名のない節(2019年3月節新設)

小坂井敏晶『民族という虚構』東京大学出版会(2002年)は、参照されてよい文献と思います。 --{{2005年1月7日 (金) 03:37 160.185.1.56}}

こんなのが本文にありました:[[en:nation]][[en:race]][[en:people]]

すべて間違ってます。もっと正しくは

nation = 独立した国、またはその国民、政府、領土。

race = 人種。

people = 人々。

なので、はずしました。--Tokek 2005年7月19日 (火) 09:23 (UTC)[返信]いや、日本語の「民族」という語は最初 nation の体制依存性、虚構性の部分を十分意識せずに、 nation の訳語として登場してしまい、その後により自然集団であるべきとの思想的変遷から ethnic group の概念に近づいていき、その過程で race や people の概念もとりこんだややこしい概念になってしまっているので、間違いではないのですよ。現代日本語の「民族」なるタームに的確に欧州語に翻訳できる対象となる単語はないといって言いというのは、歴史学者の間では常識になっているのではないでしょうか。もうすこし突っ込んで説明すると、 nation は独立した国民国家共同体を構成すべきとされた集団で、19世紀のナショナリズム勃興期にはいまだ国民国家を持たぬ文化集団が政治的に結束して自らも国家を持つべき nation であることを主張し、その影響下に日本語の「民族」が成立しているようです。また、race は自然人類学的に遺伝的性質の固定した人間集団に限定されるものではなく、父祖の文化を継承していることを意識した血縁集団にも適応される語で、そちらの要素を意識すれば正に日本語の「民族」と重なってしまいます。つまり、日本語の「民族」とも「人種」とも訳せてしまい、むしろ「種族」といった語のほうがよいかもしれない単語です。さらに、民衆のレベルからの同胞意識を主軸として考えると、 people も日本語の「民族」の訳語としてはしっくり来てしまうのです。ただ、今の本文の記述は、こうしたややこしさに関して一応は触れられていなくはないものの、日本語の「民族」なる単語の翻訳不能性とその歴史についてきちんと触れていないので、全体の修正が必要でしょう。--ウミユスリカ 2005年11月8日 (火) 07:39 (UTC)[返信]多分、フランス系の翻訳の読書や文化人類学での民族の用法が定着しているせいだと思うのですが、私にはネイションを民族と訳すのは非常に違和感があります。それは個人的問題としても、積極的にネイションを民族と訳すべきとし、エスニック・グループを族群というべき、というのは、特定の立場で決して一般的だとはいえないと思いますので、その線で編集しました。本来は、ネイションの概念のむずかしさの問題、エスニック・グループの概念の問題、日本語での翻訳の問題はそれぞれ切り離したほうがいいような気もします。コメントアウトした立場が学会の趨勢であることが示されれば、その部分の復活には反対しません。Clinamen 2006年3月9日 (木) 18:45 (UTC)[返信]それと、黒田寛一ってそんなに存在感があるのでしょうか。政治家としてはともかく、ここで彼がことさら出てくるのはけっこう違和感があるのですが。出してある定義もそれほど独創的とは思えませんし。これも私が詳しくないせいだったらすみません。Clinamen 2006年3月9日 (木) 18:49 (UTC)[返信]

エスニック・グループも書いてみました。遠慮なく修正ください。Clinamen 2006年3月9日 (木) 19:35 (UTC)[返信]応急措置として章立てだけしておいてほったらかしてあったのを加筆していただき、ありがとうございます。かなりいい線行っているのではないでしょうか。私は基本的に「民族」というターム自体、明治人が世界的な政治的、文化的共同体の見通しを明確に把握しないまま拙速で造ってしまった「失敗した造語」だと思っています。日本人が「神代の昔から」自然にあるものなんだとぼんやり観念しているものが、世界的には恣意的につくっていく、あるいは歴史的に限定された環境下で形成していくものであるという常識のギャップはさまざまな分野で見られますが、「民族」もそういったものの典型例でしょう。だから、私は基本的に「民族」という語の使用を極力避けることにしています。この項目は、とりあえずは、日本人の多くが無批判に「民族」と呼んできたものが、世界的にはかなりごちゃごちゃしたさまざまな概念を包摂した、いい加減で厄介な概念であるということがわかる構成にすればいいのだと思います。--ウミユスリカ 2006年3月9日 (木) 23:13 (UTC)[返信]

結局大幅に改稿してしまいました。ナショナリズムの史的経緯は詳しく書く必要があるかどうかと、多少踏み込んで書いているので異論があるところかもしれません。前の稿はマルクス主義系の影響のある歴史学のひとが書いたような感じを受けました(ネーションとマルクス主義における研究史の重視)が、スターリンの定義以外は思い切って削りました。情報的にはあまり減っていないと思います。しかし、にわか勉強によればソ連におけるエトノス論はそれなりに重要らしいので、加筆いただけるとありがたいです。用語の不統一は気にはなっているのですが、これもカタカナに統一したほうがいいでしょうか。エスニック・バウンダリー論関係など全般的に、エスニック関係のほうは突っ込みどころがあると思います。本質主義を批判して社会構築主義n多少加担している以外は、中立性はいちおう保ったと思うのですが、これも異論があれば修正ください。それから、ドイツ語フォルクと民俗学まわりのことは重要だと思うのですが、詳しくないのですっぽり抜けてます。Clinamen 2006年3月10日 (金) 12:26 (UTC)[返信]いやぁ、すばらしい改稿です。もうこれに加えて大規模加筆するのは、私の力量をはるかに超えています。「民族」の問題に関してはいろいろ文献をため込んではあるのですが、そちらにエネルギーを注ぐと本業のほうが手がつかなくなるので、ほとんど寝かしたままです。確かにドイツ語のフォルク関係はいろいろと加筆する必要がある事項が眠っていそうですね。特にグリム兄弟あたりの学問的運動とその周辺あたりが重要な鉱脈になりそうな・・・。この分野に通じた方の出現をお待ちしております。--ウミユスリカ 2006年3月10日 (金) 13:25 (UTC)[返信]

日本語の民族に、ネーションのもつ国家的政治性が必須のものではなく、むしろヘルダーのVolkから、民族学、民俗学ときて、柳田のラインで訳語として定着したエスニックな意味も強いことは確かでしょう。それは、ネーションの意味での主権的、政治的共同性の意味がない、ということではなく、「民族自決」というような特定のコンテキストが、国家的政治性を強調するには必要になっている、ということです。民族を、ネーションの意味に限定し、エスニックな集団には別の語をあてるというのはひとつの見識ですが、日本語の通用のニュアンスが文化・血縁・言語という文化人類学よりの語義であることはきちんと記述するべきです。Clinamen 2006年3月22日 (水) 10:23 (UTC)[返信]

最近の編集に対応して要出典の部分の検証もやりたくはあるのですが、ちょっと手が回っていないので、とりあえず要領よくまとまった文章を見つけたので、参考までにリンクしておきます。卒業論文みたいですが。

http://semi.miyazaki-mu.ac.jp/stamiya/soturon/20itou/mokuji.htm--Clinamen 2009年8月29日 (土) 12:25 (UTC)[返信]
要出典部分の大幅除去について

本記事は出典なし部分が非常に多く、要出典部分の除去を行いたいと考えております。ご異議等ありましたら、議論願います。1週間たち反対がなければ作業を開始します。--ABCEdit会話) 2019年3月16日 (土) 12:21 (UTC) 作業開始します。--ABCEdit会話) 2019年3月23日 (土) 12:58 (UTC)[返信]
済 完了しました。--ABCEdit会話) 2019年3月23日 (土) 13:15 (UTC)[返信]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef