この記事は2020年10月4日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、版指定削除となりました。
この「徳川家康」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。
日付選考・審査結果
1.2008年1月28日秀逸な記事の選考不通過
出典検索?:?"徳川家康"
???ニュース?・ 書籍?・ スカラー?・ CiNii?・ J-STAGE?・ NDL?・ ジャパンサーチ?・ dlib.jp?・ ウィキペディア図書館 読みが「ほくしゃほうとう」とされていますが、これはおそらくその次の一文で出典としてあげられている文化庁のデータベースが根拠になったものと思われます。 通説では、豊臣氏の財力を削ぐため、徳川家康が「方広寺大仏(京の大仏)」再建を秀頼に勧めたとされます(出典:『京都大仏御殿盛衰記』 村山修一氏 など )。 家康の真意については諸説あるようですが、上記の核となる「○○年○月に家康が方広寺大仏再建を豊臣氏に勧めた」ことを記録した一次史料が何なのかについて論じた文献・論文を私にて探してみたのですが、見当たりませんでした。上記について、御存知の方がいましたら加筆願います。--Kyoto history(会話) 2023年1月13日 (金) 00:24 (UTC) Kyoto history と申します。 私は方広寺大仏(京の大仏)に関する事柄を加筆しています。方広寺大仏を研究している河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』という本が刊行されたので、それを底本にして加筆しています。 上記書籍ですが、以下のスタンスで書かれています。 2、一次史料に準拠するが、それがない場合は注記書きの上で、二次史料も使用する。 3、なるべく武家の史料は避け、公家・僧侶の残した史料に基づいて検討する。 「家康は鐘銘事件について、且元に責任はないと考えていた」「鐘銘文をすりつぶせばよいという内示が家康よりあった」ということを示唆する一次史料がある旨のみ、wikipedia本文に追記しておきました。 上記につきまして、お詳しい方がいましたら、加筆・修正していただけますと幸いです。 ※凡例 〇:一次史料名(本のページ) <考察>:河内氏の考察(本のページ) <考察>:『本光国師日記』によれば、鐘銘文に長々と長文を書き連ねたことと、自身の諱を入れられたことを問題視した(p.158)。 一次史料の『本光国師日記』には、通説で言われるような、諱を割いたことについての言及はない(p.159)。
墓所・霊廟「日光東照宮の奥社宝塔」
同データベースでは2022年7月24日閲覧時点で確かに「ほくしゃほうとう」となっており、これについて文化庁に問い合わせたところ7月28日付で「それは誤りで、正しくは『おくしゃほうとう』」との回答があり、データベースも修正されました。
それ以外の根拠がないのであれば、「ほくしゃほうとう」の読みについては消去すべきものと思われます。--Nao Costas(会話) 2022年7月29日 (金) 03:22 (UTC)
「清和源氏の世良田氏が三河守を任官した前例はない」という記述について[返信]
徳川家康が「方広寺大仏(京の大仏)」再建を勧めたことについて
河内将芳氏の著作『秀吉没後の豊臣と徳川: 京都・東山大仏の変遷からたどる』の記述について
1、方広寺大仏・大仏殿の変遷を中心に、豊臣と徳川の関係を考察する。
当該書籍の方広寺鐘銘事件について扱った部分では、現行のwikipedia版とは全く正反対の内容が記述されています(読み方によってはそもそも鐘銘事件はなかったとも読める内容になっています)。私は方広寺鐘銘事件の政治史的側面について疎いので、河内氏の記述が正しいのか否かよく分かりませんが、
なお河内氏の論考は以下の通りです。
<鐘銘事件>