ノート:建築家
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建築家とデザイナー

「建築の設計に関する限り、建築家のことを日本において「デザイナー」と呼ぶことは、まれである。」という記述を巡る議論に関わる過去ログをノート:建築家とデザイナーへ移動させていただきました。なお、同じテーマの議論を継続される場合の書込み先は、本ノート内で構わないと思います。 -- 2006年3月5日 (日) 12:34 (UTC) 加筆-- 2006年3月9日 (木) 15:53 (UTC) 一部修正--忠太 2006年3月9日 (木) 16:05 (UTC)[返信]

「デザイナーという呼び方がされないのは、日本の建築家のデザイナーという呼称に対する偏見等に基づいているという考え方や、日本において「デザイナー」の言葉がもともとむしろグラフィックデザイナーやファッションデザイナーを意味していたことが理由であるなどの説もある。」と本文にありますが、実際にこういう説や考え方を示している評論家なり学者なりは存在するのでしょうか? 具体的に明示できないのであれば、削除したいと思います。 --忠太 2006年3月17日 (金) 14:20 (UTC)[返信]

掲載の基準

(提案)「著名な建築家」には、作品名を出せば誰でも知っている建築家、または建築史上顕著な功績のあった建築家に限定したいと思います。もし、何でもかんでも掲載するのなら、別項目を作るべきでしょう。 --忠太 2005年4月13日 (水) 13:42 (UTC)そのご提案に同意し、あえて削除対象になると思われる建築家名をあげてコメントアウトしてみたのですが、悪戯扱いされてしまいました。--663highland 2006年3月30日 (木) 13:56 (UTC)[返信]おっとそれは失礼しました。しかし山口文象白井晟一が削除されては余りに寂しい感じですね。上記の提案はしてみたものの、余程無名な人以外は特に削除していません(確か)。もう少し明確な基準が必要でしょうか。 --忠太 2006年3月30日 (木) 14:15 (UTC)[返信]そうですね。必要でしょう。現代建築における基準は代表作が極めて高い評価を受けていること。具体的には妹島和世は掲載すべきで、梵寿綱長谷川逸子は掲載しなくてよい、というのが私の見解なのです。いかがでしょう?--663highland 2006年3月30日 (木) 14:37 (UTC)(修正)663highland 2006年3月30日 (木) 14:39 (UTC)[返信]

忠太さんの基準に基づき、「著名な建築家」以外をコメントアウトいたしました。コメントアウトを外す場合は、著名である根拠をご提示願います。--663h 2008年12月4日 (木) 14:22 (UTC)[返信]
プロフェッサー・アーキテクト

「教員としての地位を保証されながら設計を行うのは民業圧迫である、という批判もある。」と自分で書いたんですが(かなり古い文献ですが、読んだことあり)、ネット検索しても批判の意見は見当たらないようで、むしろ「教員が実務を知らないようではダメだ」といった意見が目に付きます。引続き調べますが、いったん削除させていただきます。(公務員の兼業禁止等の点について、教育上必要ということで許可を受けることは可能なようです?) --忠太 2006年3月3日 (金) 17:17 (UTC)[返信]「教員としての地位を保証されながら設計を行うのは民業圧迫である、という批判もある。」はそのまま残してよいと思います。実際、設計・監理のみの専業で実務を行うことがいかに大変か、実際に建つ建築を設計することが現代においていかに複雑で高度さを要求されることか、を考えれば、こういった知的プロフェッションの労働対価はもっと見直されるべきだが、大学教授やゼネコン設計部は、設計・監理で食えなくてもよいわけで、その危機感がない。つまり、平気で安い設計料で入札したりボランティアと「公益」を履き違えたりするようなシステム(教育と称して学生などの未経験者・素人にタダで「実務」の手伝いをさせるなど、なおかつ作文を書いて小銭をかせぐ、だからそれらが可能)を許しており、これは、民間の個人で設計を行う実務者にとっては圧迫どころではないし、プロフェッション度の低下、社会環境の質の低下にもつながるこの状況を許しているのは、先進国と言われる国では普通に考えればありえない。専業のみのアーキテクトにとっては、それが社会的な地位を下げている原因にも見えるだろう(彼らが「タダ」同然で仕事を請負う・マスメディアに出たがりであるために、未だに、設計の知的な労働対価に対する一般の人々からの認識はまったくもって低い。つまり、デザインの労力は「タダ」だと思っている人が多い)。公共コンペも、実力・設計実績にたいしての客観的評価ではなく、役所が大学の教授を「有識者」として呼ぶ・勝者はその研究室出身によるいわゆる「出来レース」が多いなど、実際的な実力評価とはかけはなれた状況にある。これは誇張ではない)。それらは、社会的な文化資産・環境の質の低さにもつながる。なおかつ、「教員が実務を知らないようではダメだ」の部分は本当だが、大学教授は教養やスキル・歴史・理論の教育と営利に関係しない研究に徹したほうがいい。そうでないならば、プロフェッサー・アーキテクトが実務を行うならば、実務を手伝うのは素人ではなく高度に技術や知識を習得し・社会的責任を負うことのできる者のみを認め、なおかつ学外において民間同様の質的な向上・スピードの競争のもとにさらされるのでなければ、フェアではない。しかし現状は、「実務教育」に相当する部分ですら「非常勤講師」やゲスト・プロフェッサーとして外部から実務建築家をタダ同然で呼んでそれをカバーしていることが多い。公務員うんぬんは無関係。現在は国公立の教育機関ですら独立法人化しているのに、いまだに既得権の「保護」を受けているのだ。海外の建築先進国ではありえない。その状況をどうとらえるかだ。(最終2006年3月21日 (火) 20:02 Supremarch氏?<そうです。)はじめから教員で且つ外部で設計もしている人と、元々建築家でやっていた人が大学に招かれる場合、では何となく違いがあるような気もしますね(上記にある「危機感」の有無でしょうか)。学生をタダで使う点ですが、学生に頼っているようでは大した設計はできないように思われます。むしろ、実務を知らない学生に教える方に手間ばかりかかる、といったこともあるのでは? --忠太 2006年3月24日 (金) 17:15 (UTC)[返信]JIAのような無益な議論になってしまったら心外ですが、若干追加を。そもそも学生が「設計実務」を設計事務所に就職してからしか学べないのでは、卒業生を受け入れる側の民間の事務所が、彼らへの教育を再度やりなおさなければならず、ますますの負担を強いられることになる。だから、個人的には、大学で実務を教えることは必要だと思います。しかし現状は、おっしゃるように、「実務を知らない学生に教える方に手間ばかりかかる」の部分は、「外から招かれた建築家」が肩がわりしている。そもそも、社会性の舞台での「実務」を経験していない先生が大学で本来の意味での実務を教えられるはずがなく、いずれも、充分なフィーを払わないまま、民間での実務経験者を頼っている状況がある。一方で、建築研究の実験台として研究室のスペース・設備や人材を使うなら、それは、研究費から賄うべきで、学生の授業料を使うのは問題だし、教育目的なら、外部から「設計・監理」で報酬を得るのも問題だろう。さらには、実施コンペなどへの参加にも資格制限を設けるべきだ(アマチュアとプロとの分別)。逆に学内で研究室を設計事務所化するなら、それは、法律上も「事業」として社会的な義務(設計監理契約・税制上の義務、コンペなどでの中立性の保持・研究助成を受ける資格の制限など、クライアント情報の秘守義務などなど)を負わなければおかしいが、このことが学生や学生もちあがりの先生には理解がされていない。その結果「個々のモラルに任せる」という当てにならない・不明瞭な状況だ。「たいした設計ができな」くとも、それで報酬を得たり、「研究」と称しての発表に制限が無い、だれでもかれでも建築家を名乗る、というのが問題。長くなりましたが、お読みいただいたら、上記ふくめて削除されても構いません。(Supremarch)現在のJIAではそうした議論がされてるんでしょうか。建築雑誌のバックナンバー(1998.12)にプロフェッサーアーキテクト特集がありましたが、当事者が書いている文章ばかりで、当然ながら批判的な観点からのものは皆無でした。批判的意見もあってよいと思うので、削除しない方がよいでしょう。 --忠太 2006年3月25日 (土) 14:04 (UTC)[返信]JIAは、ゼネコン設計部の加盟問題や入札・ダンピング問題に関してようやく最近になって再度議論をしはじめましたが、それ以前は、その加盟条件ですらも、建築の作品的価値や学際的意味で評価されている者というよりも、まったく利益誘導型だったといっていいでしょう。


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