清衡の母の名前ですが当時女性の名前は、系図等にも安倍頼時女(むすめ)としか記載なく判明致しておりませんのでゆうというのは、後世の小説上の創作とおもわれます。--papamaruchan22 2006年10月8日 (日) 10:25 (UTC)
[返信]「有加一乃末陪」、「中加一乃末陪」、「一加一乃末陪」の名が「吾妻鏡」に出てきます。地元の伝承等を参考に考証した結果では、有加一乃末陪が清衡の母、中加一乃末陪が永衡の妻とされています。共通部分を敬称のたぐいと捉えれば、長女「有」、二女「中」、三女「一」となり、小説ではこの推測に基づき「ゆう」、「なか」、「いち」としています。とはいえ、ゆうという読み方は、後世の小説上の創作とおもわれるという意見には同意です。--ろう(Law soma) 2006年10月10日 (火) 00:22 (UTC)[返信]ところで、「頼信家人説」と「藤原登任随行京武者説」が編集により消されていますが、どうしましょうかね? 情報としては必要だと考えますが、書き方は難しいです。「頼信家人説」は各種小説などで書かれているものですが人口に膾炙していますし、「藤原登任随行京武者説」は元木泰雄京都大学教授や野口実京都女子大学教授の説です。「造興福寺記」に「経清六奥」と書いてありますが、五位以上の官人は在京が義務付けられていることから蓋然性は高いと思います。--ろう(Law soma) 2006年10月10日 (火) 00:43 (UTC)
[返信]初稿の編集からで樋爪氏と大河兼任の乱の関係につき推定の言及ありますが、樋爪氏については配流先も判明しており子孫を残したのではと思料しますので加筆します。--papamaruchan22 2006年11月14日 (火) 08:22 (UTC)
出典七宮A三富士大教授編『藤原四代のすべて』(新人物往来社、1993年) ISBN 4404020252[返信]Peachkiller様、要点整理ご苦労様です。大胆な編集もいいんですが事実かもしれない記述を除去するときは、注意深く行うということにも留意してください。しばしば、書き手というものは、根拠のある記述を、出典(参考文献)を示さないまま書き込みます。まして出典ある記述の場合は、今まで何年もこの項目が名前空間存在したのですから除去により慎重になってください。今後の貴方のウィキライフを充実するためには、項目を編集する前に、ノートページのコメントに目を通してください。なぜ、現在のような記述になっているのか、その経緯を理解してください。そうすればノートでの提案なしに項目を編集するのは慎重にならざるを得ないと存知ます。前に、ノートに、編集したいところを抜き出して、どのように変更するかを提示してください。もちろん、その編集の出典を明記するべきです。ノートに提示したあと、1週間程度待っても反応がなければ、その編集を実行しても良いんでしょうねぇ。質問や反論が出た場合には、一定の合意が得られた後に本文を編集すべきなんです。それまで長い間この項目を育ててくれた何人もの投稿者の方々のためにもまた貴方様のためにもあえて申しあげます。念の為申しあげますが貴方の要点整理自体の質が良いだけにくれぐれも大幅(-5000も!)抹消の時は一言断ったほうがいいと思いますよ。--papamaruchan22 2008年2月11日 (月) 12:35 (UTC)
[返信]記述中の「平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。」について、文献の出典または判断根拠を教えてください。--Lacconokai(会話) 2015年9月7日 (月) 01:24 (UTC)
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