ノート:同志社大学/200607過去ログ
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同志社大学について

同志社大学の首都圏での知名度が高くないとするのはどうか?格付投資情報センターの格付理由では同志社大学が高い知名度を有するとしている。また単に開学の古さから同志社が三私学なのではない。たとえば立教は同志社よりも前に創立されている。早稲田が創立されたのは明治より後である。この三校の創立者が学の国家からの独立という建学理念を打ち出したところに、他の私学と区別される理由があるように思われる(新島襄が文部省入りを頑なに拒んだのも、このような意識が根底にあったからだと考えれらる)。三木内閣文部大臣であった永井道雄は慶應義塾、同志社、早稲田の三校を自由主義派と名付けている。:同志社はキリスト教の伝道を目的とするミッションスクールではない。これは学校法人同志社総長である大谷實氏が2003(平成15)年の同志社大学入学式祝辞で明言している。同志社設立の当初にアメリカンボードというキリスト教伝道団体が大きく関わっていたのは事実であるが、1888(明治21)年の正月にアメリカンボードの経営から完全に独立し、その年の11月に発表された『同志社大学設立の旨意』において新島は「私はキリスト教を拡張するために学校を設立するのではない」と宣言している。同志社がミッションスクールでないという記述が削除されているのは理解に苦しむ。:一体何において同志社大学の“首都圏での知名度は乏しい”とされているのですか?学歴版などの書き込みに毒されているような気がするのは私だけでしょうか?少なくとも西日本の私立大学ではもっとも知名度の高い一校に挙げられると思います。
:同志社はミッションスクールではありません。このことは同志社大学キリスト教文化センター、水曜チャペル・アワー4月14日『良心とは』(奨励者・大谷實)で確認できます(同志社大学キリスト教文化センターのHPを閲覧してください)。削除されないようにお願いします。

 時の総長である法科教授が何をいおうと同志社は歴史的経緯からミッションスクールである。 日本基督教団に問い合わせるなり、同教団所属の同志社教会(君たちが 飾りだと思っているチャペル。れっきとした礼拝堂)に問い合わせみればわかる。そもそもミッションとは何か、伝道とは何かから掘り下げるべき問題であろう。「基督信徒数の増大=教勢」にのみ腐心するのがミッションだと考えているならば狭量以外の何者でもない。もし同志社出身者なら4年間(もっとか?)何をみてきたのかと問いたい。そもそも基督教的との記述は残してミッションを削除するのか。なにゆえ母校をことさらミッション系から遠ざけたいのか。 思想的思惑すら感じる。
:同志社がミッションスクールかどうかを議論するには、そもそもミッションスクールが何を意味するかを明らかにしなければなりません。私はふたつの要件が必要だと思います。ひとつはキリスト教の伝道を目的としていること(ミッションとはキリスト教の伝道を意味するのではないですか?)、もうひとつはキリスト教伝道団体が経営母体であることです。まず、同志社大学がキリスト教の伝道を目的としていないことは“同志社大学設立の旨意”から明らかだと思います。新島はキリスト教を広めるために大学を設立するのではないと宣言しています。また1888(明治21)年にアメリカンボードの経営から完全に独立するまでも、法的には同志社英学校は結社同志社の所有でした(名目上に過ぎなかったのかもしれませんが)。いずれにせよ同志社がミッションスクールかどうかは日本基督教団でも同志社教会でもなく学校法人同志社の公式見解に従うべきだと思います。学校法人同志社のトップである総長が入学式、および大学の公式ホームページで明言している以上、それが同志社側の見解であると考えるのが自然ではないでしょうか?あなたはそれは総長の個人的見解に過ぎないという立場を採られるようですが。あと私は同志社がミッションスクールかどうかに特にこだわりはありません。ただ大学のホームページに掲載されている内容を書き込んだだけなのになんで何度も何の断りもなく削除されるのか訝しく思っただけです。
:大谷総長は“同志社はキリスト教の伝道を目的とするミッションスクールではない”とおっしゃっておられます。これは必ずしもキリスト教の伝道を目的としないミッションスクール、たとえばキリストの教えに従い教育を行なう使命を負った学校などを想定されているものと思われます。そのような定義に従えば同志社はミッションスクールということになると思います。私はミッションスクールとはキリスト教の伝道を目的とする学校を指すと考えていたのですが、調べてみた所必ずしもそれに限られないようなのでこの点については明らかに私の間違いだったと思います。お詫びいたします。
:お詫びをこころよく受け入れましょう。ただ、2つ前の人の記述は納得がいかない、というより「伝道=受洗者の数の拡大」と考えているなら、あまりにも狭量だと嘆息する次第です。もし同志社関係者ならすぐにチャペルに行きなさい。大学やキリスト教的なものを単にファッション的なものとして考える思慮浅き人ならどうしようもないが。
:2つ前の記述も、1つ前の記述も私が書き込んでものです。1つ前の記述は2つ前の記述を訂正したものだと考えていただければ幸いです。
:再び書き込まさせていただきます。河野仁昭著『新島襄への旅』(京都新聞社)の181頁に“同志社がミッション・スクールでない”との記述があります。その理由としてアメリカン・ボードはあくまで後援者であり寄付者であって、経営主体は結社人である新島襄と山本覚馬である(つまりミッションの経営ではない)ことが挙げられています。また194頁でも“断る必要もないこととは思いますが、同志社はいわゆるミッション・スクールではなくて、新島襄と山本覚馬が設立し経営する学校です”とされています。河野仁昭氏は同志社社史資料室長を務められた方です。この問題はミッション・スクールの概念の捉え方次第で結論が変わってしまう部分がありますが、同志社がミッション・スクールでないという見解そのものに間違いはなかったようです。
 :「誰がどこでこう言った(あるいは書いた)」はどうでもいいから、あなたのいう「いわゆるミッション・スクール」が何なのか定義しないと話にならないよ。まあ、権威者の記述に依拠するだけの人に定義づけなんて無理かもしれないけど。
:私がいうところのミッション・スクールを同志社に当てはめてもあまり意味はないですよ。ウィキぺディアは百科事典であって個人的な主義主張を述べる場ではないですから。ミッション・スクールとは通常キリスト教の伝道を目的としてキリスト教伝道団体によって設立された学校を指すが、これらの要件を兼ね備えていなくてもミッション・スクールとされる場合もあるとしか言い様がありません。

:「ミッション・スクールとは通常キリスト教の伝道を目的としてキリスト教伝道団体によって設立された学校」だったら同志社そのものじゃないか。君は伝道が「街でアナタハカミをシンジマスカと語り掛けてくるグループ」のイメージしかないから抵抗があるのですか。伝道って何? せっかく神学部があるんだから聞いてみたら、信者数拡大運動とイコールじゃないよ。これ以上、無知と不見識を書き連ねるのは見苦しいのでやめてください。
:河野仁昭氏は同志社は新島襄と山本覚馬が設立したのであって、キリスト教伝道団体が設立したものではないと言っておられるのです。大谷総長は1888(明治21)年に発表された「同志社大学設立の旨意」の“吾人の目的斯くの如し、若し夫れ此事を目して基督教拡張の手段なり、伝道師養成の目的と云ふ者は、未た吾人が心事を知らざる者なり、吾人が志す所の者、尚ほ其上に在るなり、吾人は基督教を拡張せんが為めに大学校を設立するに非す、唯た基督教主義は、実に我か青年の精神と品行とを陶冶する活力あることを信し、此の主義を以て教育に適用し、此の主義を以て品行を陶冶する人物を養成せんと欲するのみ、”との記述から同志社はキリスト教の伝道を目的としないとされているのです。同志社の寄付行為第2条は「キリスト教を徳育の基本とする」と定めています。このキリスト教主義に基づく徳育が“伝道”であるとされるならば、一般的な語義からは離れることになると思います。

:辞書だと伝道は「キリスト教で教義を教え広めること」(講談社国語辞典)とある。かなり広い意味であり、上の人が引用した「基督教拡張=クリスチャンの数拡大」「伝道師養成=教会牧師などの養成」のような狭い意味とは思えない。そもそも、「キリスト教を徳育」を基本にした活動って「キリスト教で教義を教え広めること」とどう違うの? じゃあキリスト教的な教育って何? キリスト教の教義を抜きにファッションや道徳としてキリスト教を楽しんじゃおう、なんかカッコいいから。ということですかいな。
:岩波書店『キリスト教辞典』によれば“未信者に対してキリストの福音を宣べ伝え、彼らを信仰の道に招く教会活動”とあり(詳しくは『キリスト教辞典』を参照してください)、『広辞苑』によれば“主にキリスト教で、その教旨を伝え宣べて未信仰者に入信を促すこと”とあります。『キリスト教辞典』は広義では“この社会を福音にかなう神の国に変革しようとするあらゆる活動”としており、伝道という概念も多義的なようです。“キリスト教による徳育”が何であるかは大谷総長による「奨励」が参考になるかと思います。新島がなぜキリスト教ではなく、キリスト教主義を徳育の基本とするとしたのかを考えてみる必要があるのかもしれません。非常に難しい問題ですね。

:相変わらず基本認識が低いですね。キリスト教主義って何? そもそも宗教であるかぎり伝道は一体不可分のものでしょ。要はキリスト教に入信するのは「シュウキョウってこわーい」からいやだけど、キリスト教主義ならいいか薄いしって感じですか。十字架をファッションでつけてるのと同じね。

:浅学非才にもほどがある。もう恥ずかしいので書き込まないでください。「キリスト教を信仰しない人達に対してもキリスト教の良心による影響を与えることができないか」なんて、あなたは小学生ですか? いくら日本人が宗教に無頓着といってもそれはないんじゃないですか。同感。だらだらとノートを占拠するのはもうやめて。新島が泣くよ。嫌がらせなら他でやって。途中からの参加で失礼します。同志社大学神学部はれっきとした「伝道師養成」機関ですよ。プロテスタント最大の日本基督教団の牧師、伝道師は同志社大学か東京神学大学出身の人が主流を占めています。伝道師試験の一部が免除となるわけです(司法試験とロースクールの関係のようなもの)。以前は青山学院大学も同様の伝道師養成の神学部だったようですが、今は養成課程はないということです。こんなこと神学部に聞けばすぐ分かることじゃないですか。
そうですね。全くの私見に過ぎないので削除しておきます。すいませんでした。ところでここに書き込まれている方々は「同志社大学設立の旨意」を原文で読まれたことはあるのですか?↑いい加減にしなさい。確かに伝道師を養成してはいるので、その意味では伝道師の養成校ではありますが、神学部は純粋なる牧師養成機関とまでは言えません。特に学部生の中にはかなりの数でキリスト教信者でない人がいます。ただし、大学院へ進む場合は信徒であることが基本のようです。

ミッションスクールであるか否かという事ですが、ミッションスクールを「キリスト教の普及を第一義とする学校」と考えるのであるならば、これは当てはまりにくいでしょう。新島はもちろんキリスト教徒ですが、彼が目指したのは、欧米文化を支える精神としてのキリスト教が内在しているものを人々に伝えるためであり、それは必ずしも単純な伝道とは異なる志であったと思われます。これは新島という人物の思想を如何に理解するか、という処でまず話が分かれてしまいそうですので、あまり深く突っ込み出すと話がややこしくなるかもしれませんが。「欧米文化を支える精神としてのキリスト教が内在しているもの」だったら、単なる似非宗教でしょう? この項を読むと、関係者の間でもいかに日本人がキリスト教というか宗教一般に無頓着な証左をあらわしていると思います。上記の人の話を要約すると「キリスト教に入信するのは怖いが、世界の文明国はキリスト教国なので、そのスタイルやファッション、道徳面だけ頂いてしまおう」ということとしか読めません。あたかも、何かの「お試し期間」「賛助会員」とでしかないですね。きわめて低俗で、もし同志社関係者なら、4年間何をしていたのかと。

:「同志社大学設立の旨意」に示されている通り、同志社大学設立の目的つまり建学の理念は「政府の手に拠らない人民の手に拠る大学を設立することによって自治自立の人民を養成する」「キリスト教主義を基本とする徳育によって科学文学の智識を運用する品行と精神を養成する」この二点に集約されます。同志社大学はキリスト教の教義を広めることを目的として設立されたわけではなく、ミッションスクールとは異なる独自の建学理念をもっているのです。新島は全国民に対して大学設立の協力を訴えたのであり、全国民にキリスト教普及のための大学設立の協力を求めたのだとすればおかしな話です。国民のほとんどはキリスト教を信仰していないのですから。また新島自身が「此ノ大学ノ挙ハ・・・決テ耶蘇教拡張ノ手段ニモアラズ」と明言していることについてはどう説明されるのですかね?少なくとも「キリスト教のより良い浸透と実現」を建学の精神として掲げている上智のような大学とは明らかに性質が異なるでしょう。大谷総長にはおそらく同志社大学がミッションスクールであるとすると、海外のキリスト教伝道団体によって設立された大学という印象を与えかねず、同志社の建学の理念である「自治自立主義」が見失われる怖れがあるという問題意識があるのだと思います。新島がモデルとしたのはアメリカ国民が自らの子女を教育するために設立したリベラルアーツカレッジであって、だからこそ国民が主体的な意思(自治自立の精神)に基づいて設立する私立大学を指向したのであり、必ずしもミッションのみに依存した大学を設立しようとしたわけではないですから。


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