ここは百科事典。まず図書館へ行って『世界百科事典』のパウロの記事でも読んでごらんなさい。パウロの項目にYODAFONが書き込んだようなことは書いてない。書くべきではない。YODAFONは、主張している人がいるから書く、などとコメントしたが、そんなことは許されない。百科事典というのは、どこかに何かを主張している人がひとりでもいるからといって書き込むものではない。百科事典に記載してはいけないものはいけない。 仮に百歩譲って、まともな学者が学術書で述べていて記載するに値する場合でも、YODAFONが記載したような方式で記載したら独自の研究だ。全部、自分の感情で大量のパウロの言葉から一部のパウロの言葉を選択して、それについてYODAFON流(自己流)の形容詞や副詞をつけてコメントしているじゃないか。まさに独自の研究だ。形容詞や副詞も自分で選ぶな。 YODAFONは、まず何よりも百科事典を読みなさい。次にその分野の一流の研究者を選び、その中からまともな文献を選び、じっくり読んでそれを出典として明示し、その研究者の述べたことを以下の形式で、一言一句そのまま、変更せず引用しなさい。研究者の..............は『...............』において「......は........である」と述べた。 YODAFON自身で決めた形容詞などを一言も足すな。見つけたら全部削除する。以上のことができないならそもそもWikipediaに近寄るな。--Paulo de Tarso
現在学研ホールディングス発行の『図説 聖書の世界』(月本昭男、山野貴彦
、山吉智久著共著)から長大な引用がありますが、これは正教会、カトリック教会、プロテスタントに普遍的なものとはいえず、また、パウロ研究の決定版という性格の著作でもないものであるため、このような引用がなされるならば、Wikipedia:中立的な観点の両論併記から他の立場についても均等に引用しなければならないでしょう。--イザヤ 2010年10月23日 (土) 06:41 (UTC)[返信]この長大な引用は、2009年5月2日 (土) 13:55時点における版からですが、このIP氏は、バベルの塔2009年5月2日 (土) 12:48時点における版、ノアの方舟2009年5月2日 (土) 12:05、救世主イエス・キリスト2009年5月1日 (金) 16:31時点における版、洗礼者ヨハネ2009年5月1日 (金) 17:20時点における版でも同様の編集を行っています。--イザヤ 2010年10月23日 (土) 06:58 (UTC)[返信]『ヘブライ人への手紙』には著者に言及した部分がなく、書名も宛先のみで差出人は不明です これを「パウロ著」と言い張ったのはカトリック教会のみで、それは正典は使徒の手によるものでなければならないというカトリックの教義に則って、著者不明のこの手紙に形式上の「著者」を設定する必要があったというだけの理由です 要するに、教義的に素晴らしいこの手紙を聖書に収録したいが、その為には著者を使徒の誰かにする必要に迫られたカトリック教会がパウロ著ではないことなど百も承知の上で「パウロ著」ということにして聖書に収録したというだけのことです この手紙を本当にパウロ著だと(信仰上の理由以外で)主張した人はいないはずで、神学上では議論があったとしても歴史学的にはこの手紙がパウロの手によるとされていたことなど一度もなかったと思います ----以上の署名のないコメントは、153.228.203.168(会話
死生観の項目の終わりに次の項目を追加したいと思います。 終末信仰の確立 50年ころパウロはテサロニケ人への第一の手紙を記し、自らの終末観を表明した。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P920 )(注、この終末観は初期キリスト教の預言者の言葉である可能性大であるとされている。(出典『新約聖書』新約聖書翻訳委員会岩波書店2004年P495)テサロニケの信者は下記の予測についての終末信仰を始めた。 ・パウロが生きているうちに主の来臨がおきる。・パウロが生きているうちに合図の声とともに主が天から下ってくる・パウロが生きているうちにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえる。・パウロが生きているうちによみがえった死人や眠っていた人たちが天に上げられる。・パウロは生きたままで空中で主に会うことになり、そののちはいつも主と共にいることになる。 (注 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。