ノート:ジュリアナ東京
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経済学の指標を大衆文化とご茶混ぜに論じるのはやめてください。つまり俗と俗で論じてくださいという意味です。

学問(学術的)と俗で論じるとおかしくなります。

せめて、社会現象と大衆文化という観点にしてください。

たとえば食物(ケーキ)とかを学術的に物理学的に分子構造から述べても意味ないです。

ここは総合百科事典なのですから専門的に書きたいなら経済学における社会現象年表でも別で作ってください。?以上の署名の無いコメントは、220.151.148.222会話/ ⇒whois)さんが[2009年6月4日 (木) 06:40 (UTC)]に投稿したものです(あるふぁるふぁによる付記)。[返信]



内容について

まず署名をお願いします。百科事典という事を理解しているのであれば、「輩」などの偏見表現は控えてください(「者」では駄目なのですか?)。『一般的』を語るつもりがあるのであれば、相応の表現でお願いします。上に書かれていることは良く分かりますが、220.151.148.222さんの書かれている内容もまた、貴方独自の観点に見えました(表現方法含む)。とりわけ私のほうで差し戻したりするつもりはありませんが、Wikipediaのルールに基づいて良い編集を行っていただけますよう、宜しくお願い致します。--Oh H 2009年6月4日 (木) 06:52 (UTC)[返信]


助言ありがとうございます。

以下削除分の本文及び注釈

一般にバブル崩壊は、1990年1月の株価暴落から始まったとされる。1989年12月29日に最高値38,915円87銭を付けたのをピークに、それまで上がり調子だった株価が一気に暴落に転じる。

⇒※注バブルの指標を株価に限定するなら、これは学問である経済学上は一部正しい。土地価格やマンション分譲価格 GDPにするなどすれば経済学上でも諸説存在する。GDPに至っては1997年まで上昇しそこから元の値に戻るまで10年間を要している。このことは1997年まで日本の経済活動は上昇を続けていたことを表す数値であるが、山一證券の飛ばし行為、銀行の不良債権問題が一気に明るみに出て、帳簿上のバブル状態がこれを喫機に崩壊したといえる。タイムサイクル的には社会現象におけるバブルの崩壊が、経済学上にも一気に表面化したのは1997-1998年といえるだろう。それまでは含み損(バブル上昇期は含み益)を内包した状態で経済活動がおこなわれていたにすぎない。その時代を総称してバブル期と言うのであり、株価だけを取ってみても株価が暴落することによって多大な利益を獲得した人間も少なからず存在する。そいった一部の人間、一瞬の指標だけをとり、バブル崩壊などといっても仕方がない。

経済学上ジュリアナをバブル崩壊後の現象というのであれば、第二次ディスコブームは経済学上、バブル前の現象ということになる。1989年12月の株価最大値の頃はすでに第二次ディスコブームは終焉していた。ということはMAHARAJAなどはバブルのディスコではないということになる。

しかしここは総合百科事典である。経済学を専門的に語るなら一般的なジュリアナの説明には不要項目。社会現象としてバブルの崩壊が認識され始めたのは1995-1997頃とwikipediaのバブル崩壊の項にも記載されており、事実上マスコミ・一般大衆もそう認識しているのは出典からも明らか。

参考: ⇒http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20080909/1018559/


また1990年3月の土地関連融資の抑制について「総量規制」により不動産価値も一気に暴落する。

⇒※注これは一部地域のみ。1993年までは土地価格は上昇を続けている地域も存在する。バブルの説明にもあるが、バブルの崩壊はあるとき一瞬にして起きた現象ではない。バブルの崩壊を経済学的現象ではなく深刻な社会問題ととらえるとき目安となる時期は1995年?1997年頃であり、それまでは(事実としてバブル崩壊が始まっていたにもかかわらず)それを認識できずに楽観的でいたり、そうでなくても、まだ持ち直すかもしれないと期待していた人々がほとんどだったと見られる。にあるように、ここでは経済学を論じるものではなく、社会現象として捉えるべきである。それでもなお経済学的に書きたいなら、上記に記載したように経済学の社会現象年表でもつくり別ページでどうぞ。


この影響によりブームだったウォーターフロントの地価も下がり、1990年12月には不動産が親会社のMZA有明が真っ先に潰れる。

⇒※注当時は家賃はほとんど変わっておりません。どちらかというとまだ上昇傾向です。実際ジュリアナの家賃は上がり続けていたそうです。MZA有明が閉店した理由はビジネスモデルの失敗と営業不足です。


その翌年の1991年5月にジュリアナ東京がオープンする。逆に捉えればジュリアナ東京は、バブル崩壊により安価の家賃で借りられたが、皮肉にもブームになった後は大家と揉めることとなる。

⇒※注大家ともめたのは真実らしい。ここでも言うようなブームと経済学は別物。箱を作る時にコストパフォーマンスを考えるの当然であり、その立地条件やプロモーション戦略などを考慮して芝浦に出店したのであり、バブルが崩壊したから安い家賃で借りたなどという事実はない。そもそも都心にジュリアナレベルの空き箱がないし、仮にあったとしてもコストパフォーマンスを考えるのはビジネス的に当然のことである。どうしても、バブルの崩壊と結び付けたいようですね。もう一度言います。経済学と大衆文化を同じ土俵で論議すること自体ナンセンスです。一般的には1988-1993年頃まではバブルが時代だと考えられています。反論があるなら、一個人の荒木師匠や一部の経済学者の経済学的論評ではなく、社会現象としてのバブル時代の解釈を一般大衆・マスコミの視点で出典を明記してください。


なおバブル崩壊の影響は、地域や業種によって年度が違う意見もあるが、バブル崩壊のバブルは文字通り「泡」であり膨張した泡が一気に弾けたもの。つまりバブル崩壊は1990年に入り一気に起こった現象である。

⇒※注これは・・・www(こういう書き方はしたくないのですが、あまりにも主観的すぎて言葉がありません。。。ごく少数の人間は一気にはじけてしまった人も中にはいることは否定しませんが。。。大手銀行や金融機関がつぶれ始めるのは1997年以降ですよ。。。社会問題となったのは1995年以降です)

★★★★★★★★★★★★★バブル崩壊★★★★★★★★★★★★★★★★

上記を何回も目を通してください。お願いします。

以下抜粋「「バブルの崩壊」は、あるとき一瞬にして起きた現象ではない。グラフ(各種指標)はある瞬間に最大値を取り、理論上、そこでバブル崩壊が始まったわけだが、それは単なる序章に過ぎない。バブル崩壊は、開始から数年間をかけて徐々に生じた過渡的現象である。現象の進行は地域や指標の取り方によっても異なり、例えばマンションの平均分譲価格を見ても、東京と大阪ではピークに約一年の差がある。東京でバブルの崩壊が発生し始めた時、大阪ではまたバブルが続いていた、とも言える。また北海道、東北、四国、九州など1992年から1993年頃まで地価が高騰していた地方都市もあり、俗に「バブルが弾けた」というが、あたかも風船やシャボン玉がある瞬間に破裂したかのような瞬間的な現象ではない。

数値的に確認できる「バブルの崩壊」と、体感的な「バブルの崩壊」にも最大で数年程度のずれがある。データ上、バブルの崩壊は1990年11月ごろ始まったが、必ずしも誰もが直ちにそれを体感したわけではない。バブルの崩壊を経済学的現象ではなく深刻な社会問題ととらえるとき目安となる時期は1995年?1997年頃であり、それまでは(事実としてバブル崩壊が始まっていたにもかかわらず)それを認識できずに楽観的でいたり、そうでなくても、まだ持ち直すかもしれないと期待していた人々がほとんどだったと見られる。ただし、経済政策の失敗によって1997年以降の景気が極端に悪化し、リストラや採用抑制が一層激しくなっているため、本格的に実害をこうむった1990年代後半?2000年代前半を特にバブル崩壊による景気悪化と振り返って捉えている人も多い。」


1990年代に入ると新規オープンするディスコより、閉店するディスコの方が圧倒的に多い。もし1990年がバブル絶頂期なら1980年代よりも多く誕生しているはず。

⇒※注ここでもですね。ブームと経済学をまた混同なされている。景気がよかったからと言ってどうしてディスコが出来るのですか?景気がいいのは社会現象。ディスコが出来るのはブームからです。この当時は、第二次ディスコブームで出店した店舗があの手この手で寿命を延ばし一定数存在し、それで生き残った箱がジュリアナブームに便乗したにすぎません。第二次ディスコブーム自体が箱の競争過多でした。第二次ディスコブームで箱の乱立失敗し、採算が取れないという教訓を得た経営者が多かったのでしょう。


1980年代の高級ディスコは、男性同士の入場は不可だったが、ジュリアナ東京を始めとする1990年代のディスコは男性同士でも入店可能だった。1990年にバブルが崩壊してからそれまで男性同士で入れなかったディスコは、全て男性同士でも入店可能となる。

⇒※注これはお店の営業方針やコンセプトですね。これもバブルと結び付けるのですか。。。。呆れてものが言えません。。。どういう思考回路なんでしょうか?景気がいいと男性同士はディスコにいけなくなるのですか?



1991年にオープンしたジュリアナ東京の当初はガラス張りVIPルーム「V2」は、ジュリアナ東京ブームが訪れるまで週末でも満卓になることはなかった。またV2入口の階段には利用チャージ料が明記されており一般の客でもV1とV2を利用出来たことがわかる。1980年代の高級ディスコのVIPルームは、一見客は一切利用出来なかった。

⇒※注これは戦略や箱の大きさの問題ですね。500人入れば一杯の箱で、10組で満席になるVIPと比較してどうなるのですか?MAHARAJAやエリアがジュリアナの場所で、当時のコンセプトで集客できたでしょうか。答えはノーだと思います。もしくはブームを起こすまでに一定の期間が必要だったと思います。


ジュリアナ東京の音出しは20時からで、それまではスロータイムである。1980年代のバブル期のディスコは18時前から既に入店待ちの行列が出来、19時には1回目の盛り上がりタイムがあった。

⇒※注いつがバブル期なのか教えてほしいですね。経済学上で株価指数だけを取るなら1989年12月29日一日のみです。行列はブームが来ればどの店でも出来ます。さすがに1万人並んだとかはジュリアナしかないでしょうが。。。最終日及び昨年のディファ有明。


1980年代のバブル期のディスコをパラパラ箱と指摘する者が多いが、実際にはユーロビートは流行っていたが、パラパラは高級店では馬鹿にされ新宿や渋谷等のごく一部の大衆ディスコでしか持てはやされていなかった。よってこの頃を「第一ユーロビート」ブームと呼んではいいが、「第一パラパラブーム」と呼ぶのは相応しくない。

⇒※注どうしても高級ディスコ最高!って叫びたいみたいですね。。。ここではブームの話をしているのです。第二次ディスコブームと第一次パラパラブームはほぼ同時期に起こったブームです。事実、上の書き込みでも行っているように高級ディスコでパラパラは行われていたが歓迎されていなかった旨言及していますがパラパラブームは存在しています。それを学識者などには盆踊りなどと評価されるわけですが、同時期にパラパラブームがあったことは事実であり、それが高級ディスコに通っている方がどう思おうが関係なく、社会現象として第一次パラパラブームは存在した。高級ディスコの視点でブームを歪曲するのは非常に危険です。また同時期に、第一ユーロビートブームという呼称を用いているが、これはアルファレコードのザッツ・ユーロビートによるところが大きい。決して間違いではないが、実際にかかる曲のことを第二次ユーロビート以降の曲と区別してハイエナジーなどと称されたり、またはダンスクラシックと一括りにされることが多い。


また1988年にオープンした「トゥーリア」は、ユーロビートは一切掛かってなく、内装・音楽・ファッション・客層は、高級店に対し逆のコンセプトで営業を行っていた。

⇒※注トゥーリアはMAHARAJAやエリアとはコンセプトは違うが、一般的には高級ディスコに分類される。ここまで書くと少し疲れてきましたが、どうしてもMAHARAJAやKING AREAなどを高級ディスコ、それ以外と分別したいような言動が多すぎるのが…どう見ても高級ディスコでしょ。

参考: ⇒http://blogs.yahoo.co.jp/bus0hsensen/34269900.html


1980年代バブル期のディスコファッションは、DCブランドを中心に1着7?10万円前後の高価で上品なボディコンスーツに、アクセサリーはシャネルのチェーンベルトやプレミエールにエルメスのスカーフ、そしてカルチェの3連リング等、非常にお金を掛けている。対してジュリアナ東京では、NONブランドで1着1万円未満の安いボディコンに抑えられ、さらにお手製だったり、アクセサリーもブランド製は求められず、ゴールドでよりいっそう目立つ物が好まれた。簡単に捉えればジュリアナ東京のファッションは、高価で上品な振る舞いより誰よりも肌を露出して目立つ下品な姿が求められた。


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