キリスト教のこの版
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この「キリスト教の歴史」には下記のような選考・審査があります。有用なアイデアが残されているかもしれません。この記事を編集される方は一度ご参照下さい。
日付選考・審査結果
1.2005年9月25日査読依頼
どうもキリスト教側に偏った歴史観に見えます。魔女狩りのことにまったく触れていないのもさることながら、十字軍に関してもイスラム世界が受けた侵略被害という重要な点を避けています。世界史に詳しい方の補足が待たれます。Sampo 14:07 2004年2月19日 (UTC) しすまなのです。みなさまフォローよろしくです。Aphaea キリスト教の歴史#イスラムの圧迫と教会の東西分裂のくだりは少し事態を単純化しすぎているように思います。西方教会史だけならこれでいいのかもしれませんが、 ……という流れだと思うのですが、どうしたものでしょう。 イスラムの成立から一直線にカール1世戴冠までを語ると、「一方東ローマ帝国では」の後に聖像破壊論争がきて、時期的に話が前後するのが少しきになっています。あるいはこれを東西すでに独自の展開をみせているとして、 とするのがよいのでしょうか。まだ書かないといけないことはいろいろありますが、いじってみました。 いろいろと抜けているのが気になったので。。 このあたりをもっと埋めていくといいのかな(少なくとも最低限言及して、各個別項目へつなぐ)全体にいまのところ、古代に比べると中世の部分は教会史に傾きすぎているのかなという印象をもっています。--Aphaia 2005年8月12日 (金) 05:08 (UTC) 英語版みたら色つきになってました。色つきのほうがみやすいなと思いました(教派別のほうがわかりやすい)かえたほうがいいでしょうか。 それともどなたかこの機会に日本語化なさいますか。--Aphaia 2005年8月9日 (火) 21:03 (UTC) ウィキペディアは論評する場ではないため、「忘れてはならない」という記述はできません。
2004年の投稿
中世の部分の構成
アレクサンドリア、アンティオキア(アンティオキアはもうすこし後のはずですが)がイスラム圏に入った。
イスラム教の形像拒否に刺激され、聖像破壊運動が起こった。
西方が自立する傾向をみせており、聖像破壊運動におけるローマ教皇と東ローマ皇帝の対立により東西の溝が深まった。
東ローマ帝国でエイレーネー皇后による帝位の簒奪が起こった、それを機に西方が独自に皇帝を戴冠して完全な政治的自立を果たした。
スラブ宣教(周辺領域での東西教会の衝突)
イスラム帝国の出現と単性論地域のイスラム圏化(7世紀から8世紀)
西方の自立 (9世紀)
東における帝権強化、聖像破壊運動、スラブ宣教(8世紀から10世紀)
イスラムと聖像破壊運動について一項を新設しました。
リードは分割して「教会組織」と「修道院」にわけました。--Aphaia 2005年8月12日 (金) 05:08 (UTC)
中世で欠落していること
西方
托鉢修道会
大学、とくにスコラ学への言及
神学的発達(アリストテレス主義の紆余曲折とトマス、ドイツ神秘主義などへの言及)
東方
静寂主義(グレゴリオス・パラマス)
修道士と教会の関係
スラブへの宣教の状況
系統図
「忘れてはならない」