ノート:アルメニア人虐殺
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目次

1 虐殺の回数や死者数について

1.1 指摘


2 改名提案

3 蛇足

3.1 典拠


4 ムサ・ダーの40日(英語版)のように

5 文章のクセについて

6 Takabeg氏の編集をリバートした件に関して

7 シュシャ・ポグロム

8 ギリシャ人○○


虐殺の回数や死者数について

要出典とさせていただきました。明らかに二回以上の事件が発生しており、死者数に関しても出典もなく数百万人と記載されており、歴史的な検証の観点からも記事には多々問題があるようです。特に、トルコ・シリア・フランスが当事者となっている「ハタイ県の帰属問題」に関して一文も記載が無いことは、著しく記事の中立性を損ねていると思われます。--121.115.105.38 2012年1月25日 (水) 01:00 (UTC)要出展テンプレートのテンプ (添付)には賛同しますが、121.115.105.38さんのエディットには、問題があるように思います。四期に分かれているというのは、独自研究じゃないのですか? 通常、「ハミディイェ虐殺」と第一次世界大戦時における強制移住とそれに伴う虐殺の二つに分かれます。「アルメニア人虐殺」といった場合、普通は後者のことを指しますが、「ハミディイェ虐殺」を含める人々もいます。たとえば、 ⇒ブリタニカなど。それと、民兵組織「ハミディイェ」ってのは、何のことですか?また、「ハタイの帰属問題」の記載がないことが著しく記事の中立性を損ねることはありません。虐殺に関連する主要部分を固めてから、ハタイ、ワクフルなどに触れてもかまわないとは思いますが。まずは、本論をなんとかするのが先決でしょう。Takabeg 2012年1月26日 (木) 08:04 (UTC)

英語版やトルコ語版など他言語のウィキペディアの同項目も決して中立ではないので、それにも気をつけてください。 121.115.105.38さんが付け加えたもの (ただし使われ方が独自研究そのものなのでリバートさせていただきました)を手短に説明します。

"ハミディアンの虐殺"と書かれたものは、ハミディイェ虐殺のことで、アブデュルハミト時代の1894-96年に発生したもので、ここで「ハミディイェ」軽騎兵諸連隊が使用されました。"ディヤルバクルの虐殺"、"ザイトゥンの反乱"も引用されて羅列されていたようですが、これは、ハミディイェ虐殺の一部分を構成するものと考えて結構です。また、"オスマン銀行乗っ取り事件 (1896年)"とお書きになったものと、"第二期:イルディズ暗殺未遂事件(英語版)"と書かれたものは、アルメニア民族主義者による銀行襲撃事件とユルドゥズ宮における皇帝暗殺未遂事件のことであり、「虐殺第二期」と説明するのにはかなり無理があります。つまり、独自研究。"第三期:アダナの虐殺(英語版)" は、青年トルコ人革命に前後する民族(宗教、当時の政府は宗教問題であるとは認めてないようですが)間紛争のことで、「統一と進歩」とダシュナクツッチューンは共闘する声明を発します。「中間期」とか時代背景として、この項目で説明してもいいかもしれません。Takabeg 2012年1月26日 (木) 10:04 (UTC)

別の箇所でも貼り付けられた、リンクの羅列に関してですが、

ザイトゥン・レジスタンス(英語版)は、アルメニア民族主義者の呼称であって、「強制移住令」が発せられる前に発生した反乱であり、レジスタンスという感じではありません。

ヴァン包囲(英語版)は、アルメニア民族主義者の呼称では、ワン・レジスタンス、(『アララト』の監督アトム・エゴヤもワン包囲という用語を使っていますが)、オスマン帝国とワンのアルメニア武装勢力との間の戦闘です。

ムサ・ダーの40日(英語版)は、フランツ・ヴェルフェルの小説のタイトルです。

ウルファ・レジスタンス(英語版)は、やっぱりアルメニア民族主義者の呼称ですが、オスマン帝国の強制移住令に対するリアクションなので、よりレジスタンスと呼べるものです。

シャビン・カラヒサル蜂起(英語版)は、ロシア帝国軍の進撃に備えた、オスマン帝国軍兵站に対するゲリラ攻撃です。Takabeg 2012年1月26日 (木) 10:21 (UTC)
色々、情報を頂き有り難うございます。--121.115.105.38 2012年1月26日 (木) 10:56 (UTC)ところで、アルメニア人は、辺境住民だったのでしょうか?「そもそも辺境って何処?」というような議論をするつもりはありませんが、アルメニア人は、国の周辺部にのみ住んでいたわけではありませんので、不適切な表現だと思います。仮に、そういう表現を使用している希少な資料が見つかったとしても、不適切な表現であることにはかわりません。Takabeg 2012年1月26日 (木) 12:17 (UTC)私の文章ではないので執筆者の考えは不明ですが、訂正して良いと思います。旧アルメニア王国全域に居住していたはずで、ダマスカスやエルサレムまで含まれる広域に渡りますから。--121.115.105.38 2012年1月26日 (木) 13:51 (UTC)

どうもありがとうございます。ソースの無い部分はどんどん削除して、ソースつきのものと置き換える予定です。Takabeg 2012年1月26日 (木) 22:51 (UTC)
いくつかソースを添付して行ってはいますが、ソースを添付しても「要出典」を消さずに残す方が良いでしょうか?当面のポイントがいくつかに絞られている事が判りやすいと思うので。--121.115.105.38 2012年1月27日 (金) 05:46 (UTC)英語版から移植した場合に起きやすい問題があります。英語版では、特にこの記事のような、利用者たちの民族・エスニック間の対立が顕著に出てくる記事では、単純なソースの読み間違え以外に、恣意的にソースの内容を捻じ曲げて使ったり、ソースに無いことを書いたうえでソースを示したりすることが頻繁に見られます。ですから、日本語の利用者たちが実際に原典にあたって確認してからクリアしたほうがいいと思います。「ムサ・ダーの40日(英語版)のように」という箇所に、仮に10個、100個、1000個のソースを追加しても、この本はあくまでも小説ですから、歴史関連記事の書き方としては破綻しているわけで、ソースをつけたら大丈夫というわけではないと思います。Takabeg 2012年1月27日 (金) 23:14 (UTC)
指摘

シェイフ・ウベイドゥッラー・ネフリーの部分が強調されているようですが、これは後世における宣伝に反し、実際のところ、民族主義闘争というよりは、対シーア派「聖戦」的な性格に成りました。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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