ノーザン・パシフィック鉄道
Northern Pacific Railway
1900年当時の路線図
報告記号NP
路線範囲ウィスコンシン州アッシュランド、ミネソタ州セントポールからワシントン州シアトル、ワシントン州タコマ、オレゴン州ポートランド
運行1864年–1970年
後継バーリントン・ノーザン鉄道
軌間1,435 mm(標準軌)
本社ミネソタ州セントポール
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ノーザン・パシフィック鉄道(ノーザン・パシフィックてつどう、Northern Pacific Railway、略称NP)は、かつてアメリカ合衆国北部に存在した一級鉄道である。営業範囲は、アイダホ州、ミネソタ州、モンタナ州、ノースダコタ州、オレゴン州、ワシントン州、ウィスコンシン州に及ぶ。カナダのマニトバ州ウィニペグやブリティッシュコロンビア州南東部にも路線を延ばしていた。本社はミネソタ州ブレイナード
、のちセントポール。他社との合併により、1970年にはバーリントン・ノーザン鉄道、1996年にはBNSF鉄道となり、現在に至っている。NPは、アメリカ北部を横断する最初の大陸横断鉄道として、1864年7月2日に建設許可が下りた。内容は、未開拓地4,700万エーカー(19万平方キロメートル)を鉄道用地として提供するというものであった。同年12月7日、ジョシア・パーラム
(Josiah Perham。パーラムとはミネソタ州の地名である)が、初代社長に就任した。続く6年間、後援者たちは資金調達に難渋した。1866年1月5日にジョン・グレゴリー・スミス
(John Gregory Smith)が二代目社長となり、1870年2月15日にミネソタ州ダルースの西方25マイル(40km)にあるトンプソン・ジャンクションでようやく起工した。1870年の夏、南北戦争の支援者であったジェイ・クック(Jay Cooke)がNPに興味を抱き、またダルースに愛着を持っていたこともあって、NPに出資し、そのことによりようやく会社としての勢いがついた。1870年を通じてNPはミネソタから西へと路線を延ばし、当時のダコタ準州(今日のノースダコタ州)に到達した。また、コロンビア川河口に近い当時のワシントン準州(今日のワシントン州)カラマ付近からピュージェット湾(Puget Sound)へと北上するルートも建設を開始した。4つの小さな建設機械が導入され、ミネトンカ(Minnetonka)、イタスカ(Itaska)、オッターテール(Ottertail)、セントクラウド(St. Cloud)で使用された。それらは、喜望峰経由カラマまで船舶で輸送された。ミネソタ州では、レーク・スペリオル・アンド・ミシシッピ鉄道がセントポールからスペリオル湖岸のダルースまでの155マイル(249km)の路線の建設を1870年に終了していた。この路線はNPにリースされ、やがてNPに買い取られた。
1871年、NPはミネソタとノース・ダコタ州境のムーアヘッド(Moorhead)までの230マイル(370km)の路線を竣工し、東端部分の敷設を完了した。路線の西端は、カラマの北25マイル(40km)地点に到達していた。ウィンフィールド・スコット・ハンコック将軍(Winfield Scott Hancock)が守るノース・ダコタ州における測量も完了していた。本社と工場はミネソタ州ブレイナードに置かれた。
1872年、現ノースダコタ州を横切る164マイル(264km)の本線と、ワシントン州に45マイル(72km)の路線を建設した。11月1日、ジョージ・ワシントン・キャス将軍(George Washington Cass)が第三代社長に就任した。キャスはペンシルバニア鉄道(PRR)の副社長だった人物で、NPにとってもっとも困難な時期を経験することになる。
同年、NPはヨーロッパに事務所を設け、ネイティブ・アメリカンの土地であったノースダコタ地域への入植者を募った。その土地で測量や建設に従事する者たちは、時には現地で攻撃を受けたことから、ユリシーズ・グラント大統領に、軍による警護を要請した。1874年には現サウスダコタ州ブラックヒルズでゴールドラッシュが起き、それも原因として先住民と連邦政府とが対立を深めていった。詳細はリトルビッグホーンの戦い(グリージーグラス川の戦い)参照 1873年6月4日、東から建設されてきたレールがミズーリ川に到達した。7月14日には、ワシントン州タコマが西のターミナルと定められた。過去3年、ジェイ・クックは多大な資金をNP建設に投資していた。他の多くの大陸横断鉄道と同様、無人の荒野に路線を敷設することは莫大な資金が必要であった。さまざまな事情により、クックの投資会社は9月18日に閉鎖された。直後、1873年恐慌がアメリカを襲い、以後数年間、アメリカは景気後退の局面に入った。 NPは、その年の破産は免れた。それは、キャスにより緊縮財政がとられていたからであった。同年末までに、取締役のジョン・C・エインスワース(John C. Ainsworth
1873年恐慌と最初の倒産
1875年6月30日、NPは1回目の倒産に至る。キャスは管財人となるために社長を辞し、替わりにチャールズ・バーストー・ライト(Charles Barstow Wright)が第四代社長に就いた。フレデリック・ビリングス(Frederick H. Billings。モンタナ州ビリングスは彼の名にちなむ。後節参照)は会社再建策を策定した。同年、ジョージ・カスターは、ダコタ・テリトリー内のフォート・ライスを任され、鉄道の調査・測量作業員や建設作業員を保護した。 1877年、路線建設は縮小された。NPは、タコマから南東方向、ワシントン州ピューヤラップとウィルケソンの炭坑に向けた支線を延長した。石炭はタコマからサンフランシスコへと積み出され、セントラル・パシフィック鉄道の蒸気機関車の燃料として使用された。 この小規模な路線建設は、しかし、1874年から1880年の間でもっとも大きな建設事業であった。同時期、NPはサウス・タコマに大きな工場を開設した。長年に渡り、ブレイナードとサウス・タコマの工場は重修理と鉄道に関するさまざまなものを製作した。 1879年5月24日、バーモント州の弁護士、フレデリック・ビリングスが社長に就任した。ビリングスの在任期間は短かったが、激しいものであった。企業としての再編成、債権売却、アメリカ経済の進歩等により、NPはミズーリ川の西側に100マイル(160km)の線路を敷き、あとはミズーリ川を渡るだけとなった。NPが得た新たな強さは、ある者には脅威とも映るものであった。 ヘンリー・ビラード
フレデリック・ビリングスと最初の会社再建
ヘンリー・ビラード、ゴールド・クリーク、ゴールド・スパイク
彼は1873年の恐慌後にアメリカに戻ったとき、そうした事業の代表者となる。