ノーサンバーランド公爵
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ノーサンバーランド公爵
Duke of Northumberland

創設時期1766年10月22日
創設者ジョージ3世
貴族グレートブリテン貴族
初代ヒュー・パーシー(2代ノーサンバーランド伯)
現所有者レイフ・パーシー(英語版)(12代公)
相続人ジョージ・パーシー(英語版)(儀礼称号パーシー伯)
相続資格初代公の直系の嫡出の男系男子(the 1st Duke's heirs male of the body lawfully begotten)
付随称号ノーサンバーランド伯爵、アニックのパーシー伯爵、ビバリー伯爵(英語版)、パーシー男爵(英語版)、ワークワース男爵、ロヴェイン男爵、(スタンウィックの)準男爵(英語版)
邸宅アニック城
サイオン・ハウス(英語版)
旧邸宅ワークワース城(英語版)
プルードホー城(英語版)
キールダー城(英語版)
ノーサンバーランド・ハウス(英語版)
スタンウィック・パーク(英語版)
オルベリー・パーク(英語版)

ノーサンバーランド公爵(: Duke of Northumberland [n???θ?mb?l?nd])は、イギリス公爵位。ノーサンバーランドの他[1]、ノーサンバランドとも表記される[2][3]

過去に3回創設されており、現存する3期目のノーサンバーランド公爵位は1766年に第2代ノーサンバーランド伯爵ヒュー・パーシー(旧姓スミソン)グレートブリテン貴族として叙されたのに始まる。彼はスミソン準男爵家(英語版)の出身だが、旧ノーサンバーランド伯爵パーシー家の血を引く第7代サマセット公爵アルジャーノン・シーモアの娘エリザベス・シーモア(英語版)と結婚した関係で岳父が新規に叙されたノーサンバーランド伯爵位を継承のうえパーシーと改姓することでパーシー家を再興していた人物である。
歴史
パーシー家前

最初にノーサンバーランド公に叙されたのは、テューダー朝の廷臣ジョン・ダドリー(1502-1553)である。彼は専制君主ヘンリー8世とつづく少年王エドワード6世の治世下において出世し、ヘンリー8世時代の1542年3月12日にライル子爵(英語版)(Viscount Lisle)、エドワード6世即位直後の1547年2月16日ウォリック伯爵(Earl of Warwick)に叙せられた。そして1551年10月に摂政サマセット公エドワード・シーモア(1506-1552)を失脚に追い込んだことで国政を主導する立場になり、この際の1551年10月11日にノーサンバーランド公に叙された。しかし1553年7月にエドワード6世が崩御するとカトリックメアリー王女の即位を防ぐべく、ジェーン・グレイを女王に擁立。それに反発して蜂起したメアリーに敗れた結果、大逆罪で処刑されるという末路をたどった[4]。ノーサンバーランド公の爵位も剥奪された[5]

2期目のノーサンバランド公に叙されたのはチャールズ2世の私生児ジョージ・フィッツロイ(1665-1716)である。彼はバーバラ・パーマー(1641-1709)が生んだチャールズ2世の3人の私生児の末息子であり、1674年10月1日ノーサンバーランド伯爵(Earl of Northumberland)、コーンウォール州におけるファルマス子爵(Viscount Falmouth in the county of Cornwall)、ヨーク州におけるポンテフラクト男爵(Baron of Pontefract in the county of York)に叙され、さらに1683年4月6日にノーサンバーランド公爵に叙された。しかし子供がなかったため、彼の死とともに全爵位が廃絶した[6]

公式の物と認められていないが、1716年にはジャコバイト支持者だった第2代ウォートン侯爵フィリップ・ウォートンがジャコバイトの王「ジェイムズ3世」(大僭称者)からジャコバイト貴族(英語: Jacobite Peerage)の爵位として「ノーサンバーランド公爵」に叙せられている[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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