この項目では、シベリアの中心都市について説明しています。シベリア連邦管区のオーブラスチについては「ノヴォシビルスク州」を、サハ共和国に属するラプテフ海と東シベリア海の間にある島嶼については「ノヴォシビルスク諸島」をご覧ください。
ノヴォシビルスク
Новосибирск
Novosibirsk
市旗市章
位置
ノヴォシビルスクの位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯55度1分0秒 東経82度56分0秒 / 北緯55.01667度 東経82.93333度 / 55.01667; 82.93333
ノヴォシビルスク(ロシア語: Новосибирск, ラテン文字転写: Novosibirsk, ロシア語発音: [n?v?s???b?irsk],〔ナヴァスィビールスク〕)は、ロシア連邦・シベリアの中心的都市。別名「シベリアの首都」。ノヴォシビルスク州の州都でオビ川に沿う。人口は2017年には160万人を突破するなど近年は人口増加が続き、人口規模は国内第3位で、シベリアでは最大である。北緯55度01分、東経82度56分に位置する。
建設されたのは19世紀末であり、ロシアでも新しい町である。シベリア鉄道建設中の1893年に、ノヴォニコラエフスクという名で現在のノヴォシビルスクが建設された。1925年、ソビエト連邦成立後にかつての皇帝ニコライ2世を思わせる市名は改称され、「新しいシベリアの街」を意味するノヴォシビルスクとなった[1]。
歴史オビ河畔に広がる市街地アレクサンドル・ネフスキー聖堂ノヴォシビルスクのビジネス街国立オペラ・バレエ劇場
シベリア鉄道建設中の1893年、シベリア随一の大河・オビ川を渡る鉄道橋の予定地に、聖ニコライおよび当時の皇帝ニコライ2世の双方にちなんでノヴォニコラエフスク(新しいニコライの町、Новониколаевск)という町が建設された。この町が現在のノヴォシビルスクである。オビ川の大鉄橋は1897年の春に完成し、ロシア中央部から走る列車とオビ川を行き来する船が連絡するノヴォニコラエフスクはこの地方の交通の中心地となった。20世紀初頭にはトルキスタン・シベリア鉄道がカスピ海沿岸から中央アジアを結んでこの町でシベリア鉄道に連結するようになり、重要性はさらに増した[2]。
鉄橋開通時のノヴォニコラエフスクの人口は7,800人であった。その10年後の1907年には人口が47,000人を超えており、ノヴォニコラエフスクは市の地位を得ている。1906年に最初の銀行がノヴォニコラエフスクに開業し、1915年には営業を行う銀行の数は5つに増えた。この時期のノヴォニコラエフスクの発達は着実かつ急速で、1917年のロシア革命の直前には人口は80,000人に達し、シベリアでも有数の商業と産業の中心になり、農産物の加工工場、発電所、鋳鉄工場、日用雑貨市場、銀行、船会社や商社などが立地していた。同じく宗教や文化の拠点にもなり始め、1917年にはロシア正教会の聖堂7か所とローマ・カトリックの教会1つ、映画館複数、小学校40校と高校1つ、師範学校1つがノヴォニコラエフスクにはあった。1913年にはロシアでも最も早い時期に初等教育を必修としている[2]。
革命後のロシア内戦は街に悪影響を及ぼし、戦時下の疫病の流行、特にチフスとコレラで数千人が死んだとされる。1917年12月にノヴォニコラエフスク労働者・兵士代表ソヴィエトが市政を掌握した。オビ川の鉄橋も破壊され、ノヴォニコラエフスクは初めて人口減少を経験した。1918年5月にはシベリア各地でボリシェヴィキ政府に対するチェコ軍団の蜂起が起き白軍と手を結び、ノヴォニコラエフスクも反革命軍が押さえた。赤軍は1919年に町を奪還し、内戦中にわたり死守した[2]。
ウラジーミル・レーニンが新経済政策(ネップ)を開始した1921年、ノヴォニコラエフスクの再建も始まった。ソビエト連邦成立後の1926年、かつての皇帝を思わせる町の名は改称され、「新しいシベリアの街」を意味するノヴォシビルスクとなった[2]。ノヴォシビルスク市中心部
ヨシフ・スターリンによる第一次五ヶ年計画で重工業に傾斜した産業政策が始まり、ノヴォシビルスクはシベリア最大の産業の中心地の一つとしての地位を固めた。1930年代のノヴォシビルスクには鉱山用設備の製造に特化した巨大工場「シブコムバイン(ロシア語版)」(ロシア語: Сибкомбайн, ラテン文字転写: Sibkombain)をはじめとする大工場や新発電所などが建設された。一方で、1932年から1933年のソビエト大飢饉(ロシア語版、英語版)で17万人以上の国内難民がノヴォシビルスクに流入している。彼らは市の郊外にバラックを建てて住み、ボルシャヤ・ナハロフカ、マーラヤ・ナハロフカなどのスラムが形成された[2]。こうした急速な産業化と巨大化が、ノヴォシビルスクに「シベリアのシカゴ」という綽名を与えている[3]。
第二次世界大戦後の1954年には路面電車が開通し、人口は287,000人に達してシベリア最大の街になった。翌年、19世紀末に架けられたオビ川鉄橋は、1955年に新しいコムナルヌイ橋(ロシア語版)に架けかえられている[2]。人口と工業の大型化に対応するためにオビ川をダムで堰き止めて出力40万キロワットの水力発電所を建設することが計画されたが[4]、このダムによりオビ海(ロシア語版、英語版)と呼ばれる大型の貯水湖が誕生し、広大な松林や肥沃な農地の多くが水没した。さらに貯水湖の誕生により、街の近くに大きな開けた空間ができて風速が強まり、土壌流出の速度が速まってしまった[2]。
一方、1950年代にソ連政府はノヴォシビルスクから南へ30キロメートル離れた森の中に科学研究の拠点を築くことを決定した。